見出し画像

西国疾走少女 3

3

 試験前にはすこし遠回りして帰った。中三に上がって急に数学が難しくなった。公式の導き方がよく理解できないと話すと、桐原はガードレールに腰掛けて、ノートに記しながら説明してくれた。薄い、整った筆跡で。ブレザーの袖口から見える桐原の手首は、外側の骨がぼこっと出ていた。破って渡してくれたそれを、わたしは筆箱に大切にしまった。

 桐原が立ち上がると、わたしに当たる太陽の光がすくなくなる。

「背の高い人は、いっぱい寝ないといけないんだって」

「へえ、知らなかった」

「昔うちのお父さんが言ってた。重力に逆らう高さがどうとか、そういう理由だったと思うけど。もっとちゃんと聞いておけばよかった」

「いや、なんか、それはわかる気がする」桐原はうなずいてから「お父さん頭いいんだな。いろいろ教えてくれるんだな」と、目を細めて言った。

 武蔵野線の高架下で桐原とわかれて、幸福百パーセントで家に帰ると、梢が布団を頭からかぶって泣いていた。傍らには鳴りっぱなしの電話。こんな風に鳴らすのはだれか、訊かなくてもわかった。一気に絶望百パーセントに落ちる。

 受話器を取ると、父の妹である叔母は、自分の身内が生活保護を受けるなんて世間様に顔向けができないとまくしたてた。わたしはただ聞いた。この人に何か意見する気力など、とうの昔に消え去っている。言いたいことを言ってしまうと、叔母はネコナデ声を出した。

「あんたが生まれたときあたし、本当にうれしかったの。自然と涙が出たのよ。あたしには子どもが産めないから、あんたをたいせつにたいせつに育てようって誓ったの」

 まただ。頭の中でアラームが鳴り始める。危険。大人がきれいなことを言い出したら危険。

「正味の話さ、あんたが生まれなければ兄さんはアメリカに留学して研究を続けられたわけ。それを蹴ってまで子どもを育てる道を選んだのよ。知ってる? あんたが生まれたとき、兄さん、新生児室の窓に張り付いて離れないほどよろこんで」

 叔母はわたしの罪悪感を刺激するのが最高にうまい。プロだ。堕(お)ろせという祖母と叔母の命令を母が聞き入れて、わたしがこの世に誕生しなければ、父は学者でいられた。研究のためにならもっと身体や脳を大切にして、健康に留意した生活ができた。けれどわたしたちを育てるためには自分を殺して働かなくてはいけないから、酒に走った。走って溺れて沈んだ。

「あんたたちのために借金までして会社を作って」

 その会社が潰れて残った莫大な借金を母がひとりで返していることを、叔母は知らないのか。それとも見たいものだけを見ているのか。

「育ててもらった恩も忘れて親をすてるなんて、恥知らずにもほどがあるよ。あんたも親になればわかる。人ひとり大きくするって大変なことなんだよ」

 なんて言ってるの、と梢が涙目で問うてくる。シーツの敷いてない布団は涙でぐしゃぐしゃになっている。その辺にあったペンをとってプリント裏に書いた。「毒オバ暴走特急」梢はぷっと吹き出す。これ以上叔母の声を耳に入れていたらおかしくなりそうだったので、感覚を遮断し、夕飯を作る手順を頭に浮かべた。

「…ね、親戚みんなそう言ってるのよ。だいたい…のおいちゃんにでも知られたら大変なことよ。親戚中に……それで…これが肝心なことなんだけど……あたしはたぶん…なの。もう長くない…」弁当のおかずも考える。冷蔵庫はほとんどからっぽだ。ああ、シャツと靴下を洗わなくちゃ。そうだ、桐原がくれたメモがある。今夜はあれをタイルに貼って、眺めながら食器を洗おう。「だから叔母孝行するなら今のうちよ……ねえ……年上は敬わなきゃ。聞いてる? 年上は、敬わなきゃ!」

 大声に意識が無理やり引き戻される。敬う人間くらい自分で決めます。反論する。心の中だけで。反論もできない関係など発展しようもないが、面倒だから。すこしでも意に沿わないことをすると詫びか感謝を強要する叔母に、もう本心を伝えることはない。

「ぜんぶ、あんたのためを思って言ってんのよ。あんたはひとりで育ったわけじゃない。ひとりで生きてるわけでもない。それに」

 タコが墨を吐いている様子を思いうかべる。これは墨。墨だ。タコは墨を吐くものだ。

「親をみすてたりなんかしたら、いつかひどいばちが当たるよ」

 涙が流れていることに、しばらく気がつかなかった。梢がわたしの手をぎゅっと握った。はっとしてわたしも握り返す。ふたつの手はふるえているけれど、しっかり繋がればふるえは倍増しない。ぴたりと止まる。これ以上ない強さで、わたしたちは手を繋いでいる。

4に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?