西国疾走少女 6
6
卒業式にはつめたい雨が降っていた。夕方にいったん上がったが、夜、西国分寺駅へ向かっているとき、再びぱらつきはじめた。降りだしはやわらかく絡みついてくるような霧雨だったのが、走っているうちに一気に勢いが増し、激しい春の嵐となった。
バシャバシャと水の音を立てながら、わたしはどしゃ降りの中を走り抜けた。傘も差さずに、髪も服もずぶぬれで、息を切らしてアスファルトの坂道を駆け下りた。楽しかった。桐原に会うために疾走しているときはいつも、命を生き切っているという実感があった。
桐原が見えた。大きな黒い傘を差して、不安げな顔で立っている。一直線に向かって行く。ソックスに泥水が跳ねる。鎖骨の上のチョーカーすら歓喜していた。ひざやスカートが上がるのといっしょに、ちいさな星はうれしそうにジャンプして肌に吸いついた。
細い道を斜めに突っ切ろうとしたとき、
「由井!」桐原が叫んだ。「あぶない! うしろバイク来てる!」
さっと八百屋の軒下に身体を寄せた。わたしの中で桐原の声が反響していた。あんなに大きな野太い声を聴いたのははじめてだ。立ち止まってバイクが通り過ぎるのを待っていると桐原がまた声を張った。
「そのままそこにいて!」
広い歩幅で飛ぶように走って、桐原はわたしを迎えにきた。
「用心して、たのむから」
めずらしくきつめの口調で言う桐原の顔は、青ざめていた。
傘を、桐原はほとんど倒すみたいにして差した。わたしは柄の部分をつかんで桐原の方に向けた。それを彼がふっと笑ってまた倒す。そんなことを繰り返しながら、ざんざん降りの雨の中を歩いた。濡れて身体にぴったり張り付く服も、ぐじゅぐじゅになったソックスもまったく気にならなかった。
ふいに桐原が足を止めた。わたしを見おろして、手を伸ばしてくる。
「風邪ひいちゃうな」
指が、わたしの髪にふれた。傘の下で、桐原の匂いが濃く立ちのぼる。
「うちで乾かそうか」
白い車がその日はなかった。桐原はポケットから鍵を出して差しこんだ。
家にはだれもいないようだった。広い玄関には、よく磨かれたハイヒールがあった。桐原の脱いだバスケットシューズが重そうでどきどきした。
「そこ洗面所、タオルとかドライヤーとか、好きに使っていいよ」
ありがとうと言って、脱いだソックスを手につま先立ちで向かう。髪の先から水が滴り落ちた。ドアが、迷子になりそうなほどたくさんあった。廊下はホコリひとつなくつるつるで、すべらないように注意しなければならなかった。無機質というか、しんと平らで、熱のようなものがまったく感じられない家だ。ほんとうに人が暮らしているのだろうか。
髪やスカートを乾かして戻ると、キッチンから音がした。行ってみるとそこには黒い角の尖ったテーブルがあり、カゴがのっていて、色とりどりのフルーツが盛られていた。雑誌に出てくる家みたいだ。ソファの正面には暖炉まであった。そんなものはどこか遠い外国にしか存在しないと思っていた。お盆を手に戻ってきた桐原は、階段の下にしゃがんでいたわたしを見おろして「なんでそんなところにいんの」と笑った。
「立派なおうちだなあと思って」
「そんなことないんじゃない」
「あるよ。金色の洗面台が二つ並んでて、びっくりした」
「二つ同時に使うことなんてないから意味ないんだよ」
「お父さんなんの仕事してるの」
桐原はすこし真顔になって「よく知らない」と言った。
階段を上りきった脇に、おしゃれな洗濯機があった。二階に洗濯機があるというのはどういう間取りなんだろうと思ったが、これはお金持ちのスタンダードかもしれないと思い直した。
八畳ほどの洋室だった。きちんと整えられたベッドに、勉強机とクローゼット。机の横にはCDデッキ。床に腰を下ろすと「なんでそんなところに」とまた笑われた。桐原が手渡してきたクッションを尻の下に敷く。わたしたちは向かいあって桐原が淹れた紅茶をのんだ。会話は弾まない。クッキーは妙にぼそぼそして喉をおりていかなかった。
ごめん、と桐原が言った。カチャリとカップを置く音が大きく響いた。
「俺いま、すごくやましい気持」
「どういう意味?」
「賭けをしないか」
顔を見上げてたじろいだ。これまでに見たことのない表情をしている。メガネの奥、目の縁が赤く染まり、つり上がって、怒っているみたいだ。桐原は立ち上がって窓辺まで歩くと、手招きした。わたしが来るのを待って、桐原は外を指差した。
「あそこ、遠いけどわかる? 線路が見えるでしょ。次来る電車は何色だと思う」
「そんなのわかんないよ」
「言ってみて。もし当たったら今日はまだ我慢するから」
「我慢て何を」
「さあ何をだろうね」
またした。今まで見せたことのない顔。桐原の黒髪の一本一本から放出されている、このぴりぴりしたものはいったいなんだろう。
「もう来ちゃうよ。このまま答えないうちに来たら俺の勝ちね」
言って桐原は、わたしのうしろに立った。「俺はオレンジ」わたしは腹をくくってシルバーと答えた。電車の音が聴こえてきた。
家と家のすきまから見える、西国分寺駅へ向かう線路。夜の膜を切り裂くように、やってきたのはオレンジ色の電車だった。頭の上で桐原が笑うのが息でわかった。
部屋の空気が動く。桐原がメガネを外す気配があった。それを勉強机にそっと置くと、桐原は背後からわたしの両脇に手を差し入れてきた。軽々と抱き上げるようにしてベッドの縁に座らされる。視線が合う。かわいらしい目だった。こんな目だったかな、と思う。メガネをかけるようになってからまた、骨格が変わったのかもしれない。桐原は床にひざをつくと、わたしの太ももに頭を載せてきた。腰に腕が回される。甘える子どもみたいだった。へそには桐原の後頭部が、太ももには頬がくっついて熱かった。わたしは自分の手の置き場に困って、迷った末に彼の髪にふれた。硬い髪をぎこちなく撫でた。胸がどくどくして声にならない。腰に置かれていた大きな掌が、背中に上がっていったかと思うと、急に強い力で引き寄せられた。
「スキー教室の夜もこんなふうにしたかった」
「じゃあ桐原は、反省文になんて書いたの」
「はっ、いまそんなこと思い出せんわ。たぶん、本当のことは何も書いてない」
「なんで自分が誘ったなんてうそをついたの」
桐原がわたしを見上げた。
「なんでだか、本気でわからないの?」
桐原を見おろすのははじめてだと気づく。ここからの角度だと顔立ちがずいぶん幼く見える。笑うわたしの口元に、桐原が手を伸ばしてきた。
「もし俺がいやなことをしたら言って」
「言ったら」
「言われてもやめないかもしれないけど、最善は尽くす」
「本当にするの? コンドームっていうのを、使わないとだめなんだよね?」
わたしが言うと桐原は「武士が丸腰で戦うはずがないだろう」と笑って立ち上がり、引き出しの奥に手を突っ込んだ。箱が出てきた。その使い方は合ってるみたいと言った口を口でふさがれる。桐原の身体にこんなにやわらかい部分があったことに驚いた。唇を合わせながら、息つぎするように桐原はシャツをぬいで、肌着をぬいだ。それから、大きな白い身体が覆いかぶさってくる。耳に桐原の息がかかった。首にも、肩にも、スタンプを押すように。それはとても熱くて、心地いい。
いざ挿入という段になって、わたしの性器は桐原の小指すら受け入れられなくなった。
「さっきは中指も入ったのにな」
「入れてみて、痛くても大丈夫だから」決心してわたしは目を閉じる。
やっとぜんぶ収まったと思ったのに、桐原はわたしの足首をつかんで広げ、さらに奥までぐっと押し込んできた。挿入後に男が動くということを知らなかったので、それが奇妙に感じられた。桐原の汗が、広がった黒髪からポタポタと落ちてきて、目にしみた。
終わってしばらくすると、桐原はていねいな手つきでシーツをはがして、部屋を出て行った。洗濯機を操作する音が聴こえてくる。
放心していると、桐原がもどってきた。手にはバスタオルを持っている。桐原はトランクス一枚だった。青いきれいなトランクス。制服を着ていた彼とは別人で、大人の男の人みたいに見える。裸の男の人というのは、物悲しいなと思った。
桐原が敷いてくれたバスタオルに座ると、夢みたいにふわふわしていた。向かい合うように座ってから「ねえ」と桐原は言った。「なんでそんなに早く服を着ちゃうの」
「はずかしいから」
「もっと見たい」
「やだよ。ほかの女子よりおっぱいちいさいし」
桐原はまじめな顔で首をふって、短く褒めた。それはわたしにとって賛美のように響いた。
大きな手が服の中に入ってくる。ごつごつした掌に、すっぽりつつまれた。桐原はあぐらをかいて、じっとわたしを見ている。顔があまりに熱いので目を伏せると、トランクスからにょきにょきと伸びてくる性器が見えた。理科の授業で、植物の成長の早回しビデオを見たときのことがよみがえる。その動きは、わたしに身震いするような感動をもたらした。わたしは桐原に求められている。目の前の愛しい男は今、わたしに受け入れてもらうことだけを渇望している。ずっと探していたものはこれだったんだ。わたしはその植物に手を伸ばす。撫でてみる。つばを飲み込む音が立った。わたしのものか、桐原のものかわからない。顔を上げると、桐原のうつくしい喉仏がコリ、コリ、と動いた。
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