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西国疾走少女 2

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 中二の三学期は、幕開けからして気の滅入るものだった。始業式に桐原は欠席で、さらに、家に帰るとポストに茶封筒が入っていた。差出人は聞いたこともない地名の役所。いやな予感がする。みぞれ混じりの雨が運動靴の先端を濡らしていた。

「ただいま」

 声をかけると、せんべい布団の中で漫画を読んでいた妹の梢(こずえ)は目だけこちらに向けて「うん」と言った。毛布と敷布団の隙間から、こもったような甘酸っぱい匂いがする。畳には取り込んだ洗濯物が何かの巣のように山になっていて、シンクには、濡れたまま長い時間放置された丼やプラスチックのカップが積み重なっていた。

 黄ばんだふすまを開けると、居間のこたつの上に母のメモがあった。「おかえり。米、パン、ビール。よろしく」隅にちょこちょこっとわたしの似顔絵が描いてあり、腹が立つくらい特徴をとらえている。手早く着替え、通学用シャツとソックスを手洗いして干してから、傘を差し自転車で生協へ行った。買い物を済ませて戻ってくると、米を研いだ。それからこたつに入り、生の食パンを食(は)みながらそっと茶封筒の糊を剥がした。

 父の生活保護申請に関する書類だった。内容は金銭的な援助ができないかどうかの確認。一番下に「万が一、金銭的な援助がむりでも精神面での支えをお願いします、手紙を書くとか電話をかけるとか訪ねて行くとか」というようなことが書いてあった。脳みそが爆発しそうな感覚があり、続いて猛烈なめまいに襲われた。ああ、と声がもれてこたつにつっぷす。

 それから数時間後、同じ場所で母がビールをのんでいる。傍らにはあの書類があり、母はペンを指に挟んだまま鼻をすすっていた。うすく開いたふすまから漏れてくるひとすじの光がわたしの手の甲に乗っている。居間には低くコルトレーンが流れていた。テナーサックスの旋律に紛れ込ませるように、母は声を殺して泣いているようだった。そっとふすまを閉じて、音を立てないように窓際まで歩く。カーテンの隙間から、粉雪が舞っているのが見えた。視界がひどく悪い。武蔵野線が通過すると雪はぶわっと舞い上がり、また降りてしんしんと積もった。しばらくその景色を眺めていた。

 肉体が、内側からパンと張っている感覚があった。日々変わっていくわたしは、この自分こそが自分であるという実感がない。自分の本当に欲しているものが何かもわからない。でもとにかく外へ出たい。酸素が薄くて息苦しいから。壁を爪で削ってみる。砂がポロポロ落ちてくる。外に出たい。夜の街を歩いてみたい。西国分寺駅まで行って帰ってくるだけでもいい。夜の空気は自由な感じがする。日常は不自由ばかりだ。でもわたしはまだ十四歳で、ひとりでは生きていけないからここにいるしかない。自分では何も変えられない。自分ひとり養えるくらいのお金を、稼げるように早くなりたい。ほしい服を買って、食べたいものを食べて、いっしょに暮らす人と仲良くしていたい。

 朝になると干した衣類の乾き具合を確認する。シャツは乾きやすい。問題はソックスだ。天候によっては乾き切らない。仕方なく湿ったままのソックスを履いて、暗澹たる気持で運動靴に足を入れる。父の生活保護に関する書類を、母にたのまれてポストに投函した、その足でわたしは二泊三日のスキー教室へ行った。

 集合場所の校庭に行くと、桐原がはじめてメガネをかけていた。縁のない、すっとしたデザインのそれは彼の横顔をさらにうつくしく見せた。一気に世界がきらめく。

 見惚れていると、ちょっと聞いてよとミカが体当たりしてきた。

「昨日衝撃的なもの見ちゃった」

「なに」

 ミカは周囲をさっと見回すと、声を落とした。

「高山先輩が西国(にしこく)の駅前にあるスーパーでエロ本立ち読みしてた」

 笑うのと同時に号令の笛が鳴って、バスに乗り込んだ。ミカにもらった林檎味のアメを舐めながらわたしたちは最後列でUNOに興じた。金井がわたしと桐原を交互に見て、にやにや笑いながら言った。

「おまえたち、もうやったの?」

「あんた最低」とミカが金井の腹をぶった。「やるわけねーじゃん、つきあってもないのに」

「ふん、ミカはお子様だな」金井は大人ぶり「やるときって、こういう音がするらしいよ」と両手を打ち鳴らしたり「あれを二十回やると子どもが一人できるらしいから、ちゃんと明るい家族計画しろよ」とよくわからない助言をしてきたりした。

「デタラメばっか言ってんじゃねーよ」

「まじだってミカ。ほら、ここに書いてあんじゃん」

 金井はかばんからぱっとエロ本を出して開いて見せた。

「こんなもん、スキー教室にまで持ってくんじゃねーよ」

「オレにとってこれは刀。武士は丸腰では戦わないからな」金井はキリッとした顔つきで胸を張った。

「その使い方合ってんの? あたしばかだからわかんないけど」

「違うんじゃないか?」と桐原が笑った。「な?」

「たぶん、違うと思う」とわたしも同意した。

「あんたさあ、こういうの、レジに持ってくとき恥ずかしくないわけ?」

「全然。堂々と持っていく。おい桐原、西国の駅前にちっちゃいスーパーあんだろ、あそこ、おすすめだぞ。なんか妙にエロ本が充実してんだよ」

 顔をしかめたミカの背中を、心をこめてさすった。

「これ、桐原にも貸してやるからな」

「俺はいいよ」

「ええかっこすんなよ。あ、でもオレ人妻専門で、中学生とか高校生じゃイケないんだよ。だからこのエロ本じゃ、桐原むりかも。人妻様はまじですげえんだ」

「しらねーよ」ミカがエロ本をひっつかんでバスの真ん中に向かってぶん投げた。金井が慌てふためいた拍子に吹き出したアメが、通路を転がり落ちていく。

 スキーのレベル分けで、桐原は最上級のA、わたしは超初心者のDクラスだった。食事の席も決められていて、びっくりするくらい遠かった。

 スキーウエアも手袋もブーツも、もどかしいほど分厚いのに、簡単に雪が染みてきた。耳も鼻も指先も、濡れてかじかんでじんじんした。ゲレンデに大音量で流れるポップスを聴きながら、わたしは目で桐原ばかり探した。

 最終夜、夕食の食器を下げるときに「今夜ここにふたりで来てみない?」と桐原に提案した。その声は高揚した生徒たちのざわめきにかき消された。「ん?」と言って桐原は、腰をかがめるようにして耳を近づけてきた。わたしは足がつりそうなくらい背伸びして、同じことを繰り返した。胸がつぶれそうにどきどきした。なんでそんな案が出せたのかわからない。口から言葉がこぼれ出てしまった。急に恥ずかしさがこみあげてきてうつむくと、畳の上、桐原のソックスに指の形が浮いていた。その大きさにまた心臓が跳ねる。金井がぬっとあらわれ、親指を立てながら長テーブルの向こう側を通り過ぎていった。桐原はびっくりしたような顔をしたが、すぐにあのいつものゆったりした笑顔になって「いいよ」とわたしだけに聞こえる声で言った。

 消灯後しばらく経ってから、見回りに来る先生の目をぬすんで、部屋を出た。廊下にはくすんだ赤色のカーペットが敷き詰められている。湿ったような、黴臭い匂いがした。足音をさせないように歩いて、階段をおり、大食堂に行った。

 障子をあけると、夕刻とは全然違う風景がひろがっていた。数えきれないほどあったテーブルはすべて折りたたまれ、壁に立てかけてある。中へ進んでいき窓辺に立つと、しんとしずまりかえった雪山が見えた。きれいな月が出ている。遠くにヨーロッパのお城のようなものがあると思って目をこらすと、それは黒く陰った樹木だった。

 背後で障子があいて、ふりかえると桐原が立っている。縦に長いシルエット。目が合うと彼はホッとしたように笑い、何も言葉を発さずに長い指を部屋の隅の方に向けた。わたしはうなずいてそちらへ向かう。障子を後ろ手に閉め、桐原がスリッパを脱いで上がってくる。桐原の体重で畳がきしむ。距離が徐々に近くなる。その一歩ごとに興奮で上あごが痺れた。わたしたちはくすくす笑いながら歩いて、大きな部屋のいちばん端に腰を下ろした。距離を置いて横にならんで壁にもたれ、他愛もないことを話した。桐原はあごも喉も手の指もひざも尖って硬そうで、完成に近づいている肉体、という感じがした。

 あの日しゃべった内容はほとんど記憶から消えてしまったが、ひとつだけ明確に憶えていることがある。それは「うしなった人間に対して一ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか」というものだ。桐原が発した問いだった。なんの話からそういう流れになったのかわからない。わたしがどう答えたかも憶えていない。答えてすらいないかもしれない。あのときは、まだ誰もうしなったことがなかったから。けれど桐原は確かにそう訊いた。その一文を、わたしはその後の人生において、何度も、折りにふれて思い出すことになる。

 真夜中の大食堂で、桐原の声は、わたしの耳から入って脳に送られ、身体いっぱいに満ちた。話し方のくせや、声のトーン、えらぶ言葉。このあとしばらくだれとも話さないで、桐原だけをわたしの中に残しておきたいと思った。

 どれくらいの時間が経ったのか、廊下が騒がしくなってきた。大人たちの怒鳴るような声がして、スリッパの音が高く行き交う。桐原とわたしは顔を見合わせた。部屋を抜け出したのがばれたのだとわかった。出て行ったほうがいいねと桐原が立ち上がり、入り口まで歩いていった。小走りについていく。桐原が、迷いのない、流れるような動作で引手に指をかけた。

 その瞬間、障子が向こう側からばっとひらいた。

 こめかみに血管を浮かせた担任が目を剥いている。わたしたちが何か言うより先に担任は、大きく振りかぶって目の前にいた桐原を拳で殴った。それから同じようにわたしのことも殴った。暴力には免疫があったのでさほどの衝撃はなかった。気持にはなかったが、身体は吹っ飛んだ。桐原は飛んだわたしをふりむいてから「女の子に暴力ふるうのってどうなんですか」と歯向かった。そのために今度は腹部を蹴り上げられるはめになった。それでも桐原は止めなかった。

「ルールを破ったからって、暴力をふるっていいことにはなりません。弱い者を力で押さえつけるなんて、先生は卑怯だ」

 睨み合う桐原と担任の横で、わたしはかつて味わったことのない多幸感に包まれていた。桐原がかばってくれた。強い大人に屈せず向かっていってくれた。わたしが傷つくことに対してノーと言ってくれた。自分がなにか、もろく壊れやすい、大切なものになったような気がする。

 ぽた、ぽた、という音に気づいて桐原が全身をこわばらせた。ふり返った彼が見たのは、畳に落ちるわたしの鼻血だった。桐原の目に強い怒りが灯る。鳥肌が立った。憤怒に支配された桐原は、ぞくぞくするほど妖艶だった。痛みなど意識を集中させれば消せるし、桐原がわたしのために怒ってくれているし、そんな桐原は色っぽいしで、わたしに切迫感はまるでなかった。ただ桐原を見ていたかった。桐原がふるえる唇をひらいて何か言いかけたとき、担任のうしろから体育教師がやってきて、桐原をどこかへ連れて行った。

 わたしは担任に上腕をつかまれ、むりやり歩かされた。廊下に、なにかの目印のように血のしずくが点々と残った。入れと言われ背中を押されてひざをついたのは、狭い和室だった。担任はドアを閉めると唾を飛ばして怒鳴った。

「あんなところにふたりでいたら、男がどういう気持になるかわかってんのかっ!」

 大笑いしそうになった。先生はどんな気持になるんですか? どうして大人たちはいつも、男の気持についてばかり話すのだろう。この世界は男の気持で回っているのか。

 感情の昂(たかぶ)った担任は、朝まで同じ説教をくりかえした。「桐原とおまえはこういうことをやるタイプじゃないと思ってたよ。おまえたちは先生の信頼を裏切ったんだ。おまえたち、これからそういう目で見られるんだよ」親にも連絡するからなと脅してくるので、はいと答えたら「いいのかよ」と拍子抜けしたような顔になった。「親父さんに連絡がいったら困るだろ」とも言う。こんなときだけ本当に電話してくるならそれはそれでおもしろいと思った。彼の言葉はなにひとつ響いてこなかった。

「おれも親のはしくれだからね、おまえのうちでいろいろあって大変なのは理解できるよ。おまえが素直になれないのもわかる」担任はときおり、わたしを懐柔するような甘い声を出した。こういう発言がはじまるたびに脱力した。大人がこんな風に話しだすとき、あとに何か意味のある内容が続くことはまずない。「わかるけどね、この世に生まれただけでありがたいと思いなさいよ」ほらね。わたしは担任を見ながら見ないで、心を無にして聞き流す。「しかもこんな健康体に産んでもらっといて。それだけで感謝すべきことなんだよ。おまえ、勉強だってできるじゃないか。こんなことで内申落としたらもったいないだろう」

 この人はいったい何を言っているのだろう? 話にならない。けれど自分の意見を言うことはしなかった。無駄だから。

 翌日のレクリエーションには桐原とわたしだけ参加できず、それぞれひとり、和室で反省文を書いていた。謝れと言うので謝るだけ。くだらない。なんてくだらない。目を閉じて余韻を楽しもうとしても、せっかくわたしの中をいっぱいにした桐原の声に、担任の甲高い罵声がかぶさってしまう。足音が聴こえてくる。さっと正座して神妙な顔を作り、えんぴつを動かす。担任は「殴られる頬より殴る手の方が何倍も痛いんだぞ」と意味不明なことを述べたあとに「まあ今回のことは桐原が誘ったようだから、おまえはこれでいいよ」と反省文を受け取った。

 ペナルティとして、桐原とわたしは帰りのバスの最前列に座らされた。運転席のまうしろで、桐原が窓際。わたしが通路側。乗り込んできた金井がわくわくした顔で「ついにやったか」と耳打ちしてきた。「つきあってないのにやるかっつってんだろ」とミカが金井の後頭部を思い切りはたいた。バスの中でクラスメイトはカラオケやゲーム大会で盛り上がっていたが、わたしと桐原は腫れた頬を隠すようにひじをついて黙っていた。どうということもなかった。そもそもこれは全然、ペナルティになっていない。ゆうべの大食堂より距離が近くてむしろうれしかった。

「そろそろ」と桐原がささやくように言った。桐原がしゃべると、わたしの耳はそちら側にひきつれた。車内がどっと笑いで震えた。その陰でひっそりと桐原は言った。

「そろそろつきあおうか」

 放課後、待ち合わせてふたりで帰っていると、金井に「時計の長針と短針みたいだなあ!」とからかわれた。桐原は、優しい目でわたしを見おろした。手は大きく、指は長く、動きはゆったりしていた。豊かな黒髪のえりあしは清潔で、着ているシャツも常にパリッと真っ白だった。朝も夕もしゃべった。母のいない時間には長電話もした。公衆電話からかけることもあった。それでも足りなかった。わたしたちはもっと近づく方法を知らず、ただむさぼるように会話した。いつも電話を切るのに時間がかかった。せーので切ろう、と言ってもどちらも切らない。じゃんけんで決めることもあった。そうしてついに桐原が切ってしまうと、その瞬間、茫漠とした恐怖に全身が支配されて動けなくなった。もしもわたしが先に切ってしまうとしたら、桐原はこういう思いを抱くのか。そう思うと次にはもっと切れなくなった。

 わたしにとって桐原は、いいことなどなにひとつないこの世界ではじめて得た宝で、生きているという実感そのものだった。

3に続く

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