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読書は答え合わせだった

読書について。
どういう本が好きかというより何故本を読むのかについてまとめたいと思います。

枡野 浩一さんの「僕は運動おんち」という本で、
『人は悩みがあるから読書する』、みたいな記述があったと思うんですが、大体その通りだと思っています。


三秋縋さんという小説家の方のインタビュー記事を読んだのですが、面白くて考えさせられたので本記事を書こうと思いました。

以下、引用と抜粋
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https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180919-00010000-bookasahi-life
自分が本当に何かを読みたいとか書きたいとか、何かに逃げたいとか、そいう切実な欲求が無い時に書き始めてしまうと、どうしても他人事のような物語になってしまうんです。
――逃げたいとは?
ひとつは自分が自分であることですかね。もしくは単純にほかの人生について考えたい、っていうような漠然とした動機でもいいんですけれども、物語を書いたり読んだりする欲求って、第一には自分以外の人生を生きてみたい、というようなものがあると思うんです。そういう欲求が高まる時って、自分が自分であることの絶望みたいなものから逃れたい、ていう場合もありますし、あるいは単純に目の前に考えたくない問題がある、っていう場合もありますし。もしくは現実そのものの在り方に絶望したりとか、そういうパターンもあると思います。

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以上がインタビュー記事の引用です。

この「自分が自分であることの絶望」という表現がしっくりきました。

考え方も感じ方もそれをひっくるめた人生も、どうしようもなく「自分」であることに嫌気がさすということだと思います。私の場合、自己肯定感が低いことと関係があるのかもしれません。

本を読みたくなるルーツはこのあたりにあるのかなと思いました。

悩みがあるから、自分が嫌になるから読書をするのかもしれません。

それらも踏まえて、今までどういう思いで読書してきたかを以下にまとめていきます。


答え合わせとしての小説

小・中学生くらいの時から小説が好きでよく読んでいましたが、そのモチベーションは「他の人がどう感じ、どう考えているかの答えを知りたかった」ことにあります。

国語の問題でよく「この時の主人公の心情はどのようなものだったか」みたいな問いがあったのですが、よく間違えてました。
こういう問題は自分で勝手に想像して解答するのではなく、『本文に必ず答えがある』ことを念頭において、本文の言葉を用いて解くのがセオリーなのですが、それがわかるのはだいぶ後の話になります。

他にも、ドラマとかで人が泣いているシーンを見て、「この人が泣いているのはこういう理由?」と他の人に聞いて、全然違う答えが返ってくる、なんていうこともありました。

どうやら自分が感じたことや考えていることと他の人が感じたり考えたりしていることに乖離があるようだとわかりました。

この状況、この場面に置かれた時、「普通」の人ならこういう気持ちになります、という「普通」の心情がどうやら自分にはよくわかっていないようでした。

少し他の人とはズレているというか、共感的な感受性に乏しいというか、何かが違うという気がしました。

「普通」の心情が知りたい。

自分が「人の気持ちがわからない」ような人間であることがわかったので、理解できるようになりたいと思うようになりました。

しかしながら、現実のシリアスな状況で、どういう心情なのかを直接人に聞くことはできません。
極端な例で言えば、今まさに泣いてる人に
「ねえ何で泣いてんの?どういう心情?」とか聞くのはあまりに無神経なので。

つまり、国語の問題と異なり現実的には答え合わせができません。

ドラマや映画、漫画でも難しいと思います。
なぜなら、表情や演技で感情を訴えてくる場面が多く、どういう気持ちであるかは言語化されておらず、読み解くしかないからです。
状況を説明するために無駄にセリフの長い映画などあまりないと思います。
漫画なら心の声みたいな描写がありますが、コマ割りの都合上、最小限の説明になりますし、言い回しも簡潔なものになるでしょう。あまりに心の声ばかりの漫画では展開が進まないと思います。
よって、おそらくこんな気持ちではなかろうかと考えるものの、答え合わせはできません。

そこで、小説の登場です。
ドラマや映画などとは違い、その時その場面での気持ちを言葉で表してくれます。
行間を読め、なんて言われたら厳しいですが、多くの小説では心理描写が細かく書かれています。
また、モノローグ的なものも存在して、状況説明と同時に心情や心の声も聞けるようになっています。

これなら答え合わせができる。
そんな感じで読書してました。

もちろん、直接的に心情が書いていない場合も多くありますが、それでも表情や雰囲気から読み取るよりはいくらかわかりやすかったということです。

実際に小説原作の映画を見ていて、「この場面はどういう心情だったんだろう?」とわからなかった部分があったときに、原作を読んで納得できた経験もあります。


いや「普通」の答えなくね?

そうやって小説を読んでいくうちに、あまり細かい心情がどうかとかが気にならなくなっていきました。というより単純にサラッとしか読まなくなってきただけかもしれませんが。

そして、高校を卒業して、大学に行ったときに新たな考え方に巡り合います。

大学では、それまでの義務教育とは異なり、答えのない問い(研究など)に初めて出会いました。

そこで初めて考えの多様性や正しさが相対的なものであることを実感しました。

つまり、小・中・高と読んできた小説の心情表現が「普通」の答えと思っていたのですが、それも違うかもしれないと思うようになりました。

「その小説の心情表現はその著者が思う心情表現なのであって普遍性があるとは限らない」と考えるようになりました。

絶対的な答えなどそもそも存在しない、という考え方です。

寸分の狂いなく著者と全く同じことを考えられる読者なんかいるはずもありません。

そうなると自分が思うような「普通」なんてそもそも存在しないんじゃないかと考えるようになりました。

小説に出てくる登場人物の心情というのも、所詮、『著者が思う』、『著者が考える』、その時その場面の人間の心情であるに過ぎないということです。

こう考えると正解、不正解という息苦しさはなく、「あ、おんなじ風に感じたわ」とか「そんな考え方もあるんや、へ~」くらいに思えるようになりました。


思うに小説とは、『経験』『追体験』『想像』でできている

どんなに突飛なSFの小説だろうがファンタジーだろうが、でてくる登場人物は著者の考えを反映させたようなものだと思います。

または、著者がそれまで生きてきて出会った人であったり、誰かの話を聞いたり本を読んだりして追体験して得た情報からの産物だと思います。

泣いている人が出てくる場面があったら、著者がそれまで体験してきた泣くような場面での心情や、似たようなシチュエーションで泣いている人に遭遇、または「こういう状況で泣いちゃったことがあるだよね~」と伝え聞いた心情、もしくはそういう状況で泣いている人が描かれた別の小説の心情等々、を参考にして、そこに『想像』を付け加えて描かれているのだろうと思いました。

だから、たまに小説の中で「こういう人ホンマにおるよね~」って言いたくなるような人物が現れるのだと思います。


今、何を思って小説を読むのか

考えていくほど「普通」の心情というのはよくわからないものになってしまいました。

ですが、「世の中にはこういう風に考える人もいるのか、自分の考えにめっちゃ近いやん」みたいな嬉しさは感じられるようになりました。

また、たとえ自分が考えていた「普通」と異なったとしても、自分にはない考え方や感じ方を知ることができたと思えるようになりました。

では、「答え合わせ」ではない小説を読むモチベーションは何になるでしょうか。

それは「幸せな勘違い」に出会うためです。

この表現はミステリー作家である辻村深月さんのエッセイに載っていた言葉だったと思います。

どういう意味かというと、『この小説は自分のために書かれたようなものだ』と勝手に勘違いするということです。

冷静に見れば何を大それたことを、と思うのですが、そんな勘違いをするくらい感動して胸を打たれた、共感した、という体験は誰にでもあると思います。

読んだ後で、ハァ~~、ヘェ~~、って言葉にならず、感動のため息しか出なかったような本の一冊や二冊は思い浮かぶのではないでしょうか。

「読後感がすごい」って表現がしっくりくると思います。
冒頭の三秋さんのインタビューの引用に戻ると、

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――三秋さんは13年に『スターティング・オーヴァー』という作品で作家デビューしていますが、小説を書き始めたきっかけは何だったのでしょうか。

 僕の中でも結構あいまいなんですけど、中学生の時に乙一さんの「しあわせは子猫のかたち」が入った短編集を読んだんです。そのときに、「これは自分のために書かれた物語だ」という風に初めて感じて、小説という表現方法に興味を持ちました。ひとことで言ってしまえば暗い話なんですけど、美しいものにあこがれているけれども自分はそれに属していない、みたいなところがすごく共感を誘ったんですね。

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以上が引用です。

やはりこういう体験は誰もが経験しているのだと思いました。

(そして言いたい。その感じ、めちゃくちゃわかりますよと。しかも「しあわせは子猫のかたち」て。最高じゃないですか。と。)

そしてそういう一冊は、自分の年齢とかその時の環境とかで大きく変わると思います。

もっと細かく言えば、小学生なのか中学生なのか高校生なのか大学生なのか社会人なのか薬剤師なのか子供なのか親なのか恋人がいるのかいないのか等々、によって変わると思います。

十代の頃はあの本に感動して、二十代の頃はあの本に感動して、、、というように、いつでも最高の一冊に出会える可能性はあるのだと思います。

つまり、「幸せな勘違い」をもたらしてくれる本は永遠に探すことができるということです


わかるわ~~、共感できるわ~~、ええな~~、というあの何とも言えないため息をつかせてくれるような、感情に起伏を与えてくれるような、そんな本に出会う旅を死ぬまでできるということです。それだけでも本を読む価値は十分ある、と今は思っています。

アメトーーク!の読書芸人でピースの又吉さんが詩集も読んでるっていう話になった時に、『ある瞬間というかある時に、それまでよくわからなかった文章が心にすっと入ってくることがある』みたいなことをおっしゃってたように思います。この感覚に近い気がします。

一回読んだ本でもまた別の時に読んだらものすごくよかったっていう体験はあるでしょう。子供の頃に読んだ本でも大人になってから読み直したら新たな発見があるかもしれません。

なにがいいんだか全然わかりませんっていうロックンロールも、また別の時に聴いたら、MDとってもイヤホンとっても全然鳴り止まないっ!ってこともあるでしょう。

人の感情というのは年齢と言わず、その日であったりその瞬間であったりと逐一、経時的に変化するものだと思います。
もしかしたら読んだ後、すぐまた読み直しても多少感じ方は異なっているかもしれません。



以上が自分の読書に対する考えみたいなものになります。

本は好きですが書く能力は無いから長文になってしまいました。
変な理屈もこねたような気がしますし、幾分ふざけた文章も書きましたが、読書はおもしろいということが伝わればと思います。
そして、これからもずっと楽しんでいきたいと思っています。



伊坂幸太郎さんの「砂漠」に出てくる西嶋ならこう言うでしょう、『くだらない「心情表現の答え」なんて言ってないで素直に感動すりゃいいんですよ、そんなの。何様なんですか。』と。

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