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吉崎観音とサイン―「けもフレ騒動」批判?

(ヘッダ画像出典:【公式】ケロロ軍曹PRのツイートより
https://twitter.com/keroro_PR/status/1455714771857072128?t=WZBIwERtEoujqPHsZzTk1A&s=19)
 ここ最近、「夜はTwitter、ようよう白くなりゆく窓際」みたいな生活ばかり続けており、半ば徹夜による身体の疲労は元より、刺激の無さ故の精神的に苦痛にさいなまれている。なので、手すさびにツイートを文章に纏めてみたいと思う。

 題名と上記のツイートを読んでいただければわかる通り吉崎観音の話題である。詰り、未だに「ムク崎www」というナラティブ(の否定)に囚われた私は半ば偏執的にそれへの批判―いや、反証を求めており、その話題である。因みに自分が吉崎観音に纏わるネガティブな話題に反論を繰り返す理由には大した物は無い、即ちライトにしてもファン故に彼に纏わる下品な物言いが辛いというだけの事だ。
 ここで、上記のナラティブに対抗するために私が持ち出すのが「吉崎観音の色紙やイラスト寄贈の多さ」である。何も、「サービス精神旺盛ないい人が嫉妬なんかする訳無いだろう」と言いたい訳ではなく、或いはそういう落着になるのかも知れないが、通り一遍の「事実に基づく列伝による否定神学」にする積りは無い。
 何故ならこちとら「嫉妬云々に纏わる人間の内心の状態が容易に確認できるとの考えは傲慢」「第一吉崎に絶対の人事権なんか無かったろう(反社と繋がってる…それを寝言と言うんだ。俺は寝言に構わない)」「そもそも成人が監督の降板位で天変地異くらいのインパクトを感じるな」と思っている、詰り「嫉妬説」の否定に必要性を感じていないからだ。それに「吉崎観音は誹謗中傷を行った阿呆に対して訴訟を起こすべきだった。それは『道義的な義務』かも知れなかった」という批判も払拭しきれていない故もある(これに関しては結論に於て展開する予定である)。
 「けもフレ騒動」に於てファクトを重視しない散漫な洞察は、或いは「親吉崎派」にとっても有害無益な物かも知れず、これに関しては躊躇を感じないでもない。然しそれでもこの文章を書いたのは、この発想が温存やツイートと言った処理で朽ちる事を危惧しているからであり、それに乏しい知識や理論の補強の為には思い切って門戸を開くのが手っ取り早いと思うからだ。
 それに「たかがアニメ如きで生まれた分断」を(自分等に有利な形で)癒そう(コンセンサスを得よう)とするならば寧ろ、「事実的に正しい認識をしている者」こそが事実の広報以上の労苦を背負い汗を流さねばならないからだ。これは私淑する『論語』からの教訓だ、こまっしゃくれてお座なりで幼稚な綺麗事かも知れないが外野の俺はアニメ如きで誰かを心から恨みたくはない、ならば自分に対するツッコミは甘受せねばならない(これはカフェインで勇壮な気分になって余計な文章を書き散らしてるな。まあ、文章書くのと読んでもらうのが好きなんだよ)。
 乱分失礼。さて、本題に入ろう。
 吉崎観音の寄稿数々の寄稿、色紙贈呈は枚挙に暇が無い。以下にその例を幾らか出してみよう。

女川さいがいFMスタジオ外壁(2013&2015)

村下孝蔵を偲ぶ会のキャラクターデザイン(2015)

被災地復興支援の一環として北海道むかわ町、穂別小学校へのイラスト寄贈(2018)

東武動物公園で飼育されていた高齢のペンギン、グレープくんへのイラスト贈呈(2017)

 その他にも『けものフレンズ2』公開に際しての全国の動物園・水族館への色紙の贈呈や、小学館漫画賞受賞に於ける「ケロロ将軍」に代表されるようなメディア露出ごとのイラストの発表、挙げて行けばキリが無いのである(なお宮城県女川町とのつながりは2020年も継続している)。
 勿論このような列挙は彼の聖化による間接的な自慢などではない。というよりそんな真似は不可能だ。それを実感したければ一度「吉崎観音 色紙 けもちゃん」とgoogle検索してけもちゃんというサイトを覗いてみればいい。彼の行為は「本業(Twitterによるたつき監督降板の弁解―詰り「実態がどうあれ自分が悪かった」と言い怒号と嘲笑を受ける義務)を放棄した薄汚い売名行為」と口さがない連中からせせら笑われている様を好きなだけ鑑賞できる(そしてけもちゃんは広告料を獲得できる)。そのような実態を知りながら屈託無く手柄と言い張るには俺は度胸も鷹揚さも持ち合わせていない。
 詰まり、上述の列挙の目的は反証ではなくある種の提案であると言いたいのである。吉崎観音についての別の視点を通して「けもフレ騒動」の硬直した意見を解し、こっちの言い分もある程度聞いてもらう、それこそが目的だ。今更「ムク崎www」とか嘲笑していた奴輩の首根っこ捕まえて「謝れ、謝れ」と言い募っても無駄なのだから。もうとっくに公訴時効であるから。寧ろそう募る側が悪人の誹りを免れない事を考えると、やっぱり自分に残された道はそういった人物に話を聞いてもらい少しでも当時を回想―悔やむにしろ面白がるにしろ―してもらう事しかない(第一、第三者に謝罪を迫る権利があるのかと思わざるを得ない)、そしてその為には既に使い古された社会的リアリティのドッジボールでは駄目なのだ、新たな酒(反応)を求めるのなら新たな革袋(観点)を与えねばならない。
 閑話休題、話を吉崎観音の寄稿の話に戻そう。
 前述の繰り返しになるが、この寄稿の数々、少なくない人数から「虚栄心からの善意の押しつけ」と揶揄されている、要するに上記の行為の動機は吉崎観音の自意識の押しつけと言うのが批判の要旨である。
 然し、私にはそうとは思えないのである。その理由を如何に列挙すると
1.虚栄心と見做すにはイラストレーションに細心の注意が払われている(一回、『けものフレンズ2』の際の色紙を見てみよう。色鉛筆で塗られたイラストであり、とても簡単に描けるとは言えないだろう)
2.上記と類似だが、やはり作品数がとても多い。
3.虚栄心云々というなら自分から紹介する筈だが、Twitterを辞めた現在は寧ろそれは外部の人間に委ねられている側面が強い(『ケロロ軍曹』公式アカウントから拡散されていない作品も少なくない―例えばMTB2021における色紙などである)
4.吉崎が色紙や壁画の永続性を殊更望んでいるとは思えない
 となる。
 1.と2.に関してはこれ以上の説明は不要だと思われるので3.と4.について補足する。
 先ず4.についてだが、前述の女川さいがいFMについてのスレッドの下部を読んで欲しい。吉崎曰く、「一旦掠れる」事も織り込み済みとの記述が見られる。恐らく、この掠れを意識するという事は女川に住み続ける事、建物が存続する事であり、即ち復興への期待を意図しているのだろう。然しその希望の暗示として吉崎観音が描いたイラストは目的を果たす為にはある意味「粗末」に扱われる必要がある。そしてこの傾向への直感は3.に於てさらに補強される。詰り吉崎観音のサインや色紙には、ある程度その場、その時という制限が課されているとの自覚の元にある。そしてその制限は、彼がホームページやTwitterを止めた事でより明朗な物となる。即ち、「公式による」ネット上でのデジタルな拡散と保存が半ば放棄され(或いは、観光客やイベント参加者やステークホルダーによる営為に委任され)サインや色紙はより一時の代物としての性質を強めている。
 無論、吉崎がサイン色紙にそのような傾向を付ける為にTwitterを辞めたと言いたい訳では無い。彼がTwitterを辞めたのは(もっとも一般的な理解に依拠するなら)『けものフレンズ』のたつき監督降板に於てのネット民からの無用で執拗な突き上げを避ける為という現実的な理由に過ぎない。然し、敢えて言うならば、ネット上の突き上げ自体に重大な意味を見出さない作家の性癖自体がそのような効果を齎しているとは言えそうだ(ここら辺自分が前に描いた話―https://note.com/1st_avocadowani/n/n6a0aad1bc3e6―に通底する)。
 いずれにしても、彼のネットからの距離感を見ると、そこに「己のモチーフの認識を共有させる自意識過剰」を見出すのはむつかしく、寧ろ自己の発散による他者との連携、融和、或いは献身という意識を見出す方が(死語と了から考えても)正当であろうと思われ、蓋し吉崎観音のモチーフが単なる「考察とファンサービス(後は「悪質な作家による刻印」―この認識は後述する)」であり、これはTwitterを辞めてしまったのとそぐわない(つまり、Twitterを辞めたのは性癖以上の重大な理由がある―詰り不正をしていてその隠滅を目論んでいる)というのは、吉崎観音的な人間を理解する為の意識や、強い言葉で言えば洞察力が「若いオタク」の間で全く失効している兆しなのではないかと一抹の不安を覚える*1。
 然しこのある意味での若さに一方的に責められる態度は私にある種の示唆を与えてくれる。
 私は「何故吉崎観音は訴訟をしないのか」との不満を表明し、そこに「義務の不履行」を見出したが、今までの文脈を鑑みればそれは当然のようにも思えてくる。詰り、吉崎からしてみれば訴訟というパブリックな場所で何らかの所在、権利を確立してしまう事こそに抵抗があったのだろう。それは、色紙や壁画と逆の意図を持っており、ある種の作家とファンという階級の峻別を物語っているように見えるのかも知れない(敢えて言えば「アンチ」のような悪質なファンの定義の過程はそれに通じる可能性もあり得る)。そういう処罰による安寧を肯定するなら黙って耐えようという美徳が訴訟を留まらせたのだと私は見ており、それを否定する事は出来ない。ただ、これに関してはやはり前述の法的で平等な解決との相克が未解決のまま横たわり続ける事と、やせ我慢の貫徹で心を削られないある種のマッチョイムズを幾らか強いているのではないかとの疑問が消失していない事を述べないのはフェアではないだろう―個人的には、法的サンクションではなく、(暴言に屈しない事を示す為に)周囲の人間も揃って忍従を選ぶ様は田舎暮らしから見ると幾らか田舎的に思え、彼の九州出身という自負を感じないでもない。兎も角、吉崎観音が「一般的なオタクカルチャー」とは幾らか異なる思想をしており、それを抜きに一般的な善悪を云々するのは害悪だと私は思う。自意識過剰、悪人、どちらも私からしたら言い掛りにしか聞こえず。そしてその言い掛りにしか聞こえない内輪のネット議論に耽溺するうちに我々の方こそすっかりそうなってしまったように感じられてならない。
 彼の作風にある拡張傾向、世代や世相の変化との相克、現実世界と仮想との重なり合いという側面と、それを可能ならしめている自分が泥を被るとの倫理観(泥投げ自体を禁止はしない)は今では嘲笑の的となっているが、それでいいのかと思わずにはいられない。幸いにも吉崎観音はその身心が時空の揺らぎに揺れながらもいまだ健在である。

追記:
・終盤は兎に角、書き切るために論旨を端折った部分が多い。特に、「色紙やサイン」がどう吉崎の世界観を反映しているかに関してはだいぶ説明不足の嫌いがある。要するに、彼が志向するアナログな、或いはパーソナルな物は風雪の影響を受けやすく、変形しやすい。然し、その変化を肯定し、其の解釈の揺らぎを以て等身大の人間同士がそのすり合わせや親睦を深めるとの理念が彼にあり、そこにあるのは作品の独占ではなく加工と発散といういい意味での匿名性である(そしてここ10年のSNSはそういう意味での匿名性ではない―寧ろ顕名の元に制御されたエゴのとめどない拡大が見られる―「ムク崎」呼ばわりなんてそのいい例だ)。そしてその理念はある種の頑固なやせ我慢と繋がっており、その全面的な肯定は兎も角として見習い、今までの論理を見直すべき所はあると言いたかったのである。
・吉崎嫉妬論の否定としての佐藤順一等のアニメ作家からの好印象があるが、『ケロロ軍曹』というアニメ自体が、そういう拡張性を持っていた可能性もあると思う
・自分はこの分野に明るくないので出来なかったが、この話をシェアード・ワールドやポップアート論、「推し」概念批判に繋げる事は或いは可能かもしれない。これは後続の人間(自分含む)に任せたい。詰り、感想・反論をお待ちしている。
・これは同人誌を漁り吉崎観音の「一貫した魂」を見出しているツイッタラー、oguraumauma(https://twitter.com/oguraumauma)への批判であるが、現状ブロックされている為に彼がこれを読む可能性は0に近いだろう。折伏の機会損失ではなく、吉崎が諦めた現状のネット交流の特徴がそのまま表れているため残念に思う。

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