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38年の人生回想・小学生編

10月11日は誕生日でした!人の誕生日を祝う事は好きなんだけど、自分の誕生日を祝われる事は昔から苦手です(笑)なぜだ???

好きな花がコスモスなのは、きっと秋生まれだからだと思います。

さて、おととい無事38歳になりました。会社に19歳のアルバイトスタッフが来てるんですが、ちょうど半分くらいの年のスタッフと仕事をするようになり、そこそこなおじさんになったなと実感しています。

年を重ねたタイミングもあり、良い機会なので、今日のテーマは自分人生の振り返りにしてみようと思います。

見出しの写真は小学時代。一番左です!


1985年10月11日・生誕

産まれたのは鹿児島県鹿屋市で、その中でも串良町細山田という絵に書いたような田舎町で育ちました。
父は自営業、母は専業主婦。幼少期はバブル全盛で景気が良く、霧島のリゾート地(高千穂牧場のすぐ裏)に2階建ての無駄にデカくて広い(お風呂は温泉&ガラス張り)別荘を持つ、ボンボン家庭で育ちました。

父と母について


父はほとんど休みがなく、遊んでもらった記憶は一度もありません。自転車に乗ったり、竹馬に乗る練習をしたり、キャッチボールをしたり、という普通なら父親と乗り越えるであろうビッグイベントは全て母がこなしてくれました。きっと忙しかったんでしょう(今は気持ちがわかります笑)

父は挨拶には特に厳しい人で、たまに父の会社へ遊びに連れて行ってもらった際、取引先の人やお客さんへ自分から挨拶ができなかったりすると、耳を引っ張られて、大目玉をくらいました。教育に関しては割と放任主義な父でしたが、「なんでもいいから一番になれるものを見つけろ」「夢中になってる人間、一生懸命な人間にしか運は巡ってこない」というのが口癖で、後述しますが、私が夢中になった物事や一生懸命に取り組んでいる事は、陰ながら全力でサポートしてくれたような気がします。

一方、母。僕が第一子ということもあり、とにかく厳しかったです。小さい頃は絵に書いたような教育ママで、母の有り余る時間と、家庭の財を余すところなく注ぎ込んでいただき、田舎の割に超絶な英才教育を施していただきました。(全て無駄にしてごめんなさい)

ちなみに母は高校時代ギター部で音楽大好き。歌手になりたかった?目指してた?らしく、それはそれは、歌が本当に上手な人でした。父の会社の隣がカラオケで、よく連れて行ってもらって一緒にカラオケしていましたが、いま思い返しても本当に歌が上手でした。

当然、音楽も大好きで、毎週CDショップへ僕も連れて行き、いろんなCDをレンタルしたり、購入したりして連日家で流していました。ジャンルも幅広く、邦ポップスからオールディーズの洋楽、ディスコミュージックまで、常に家の中はBGMがかかっている状態で、そのCDをかたっぱしから自分も聞いていたので、今でも還暦世代ドストライクな曲は一通り抑えられています。

中学校に入ると、父の会社で働いていた「しんちゃん」という、今で言うところの、ちょいヤンキーな20歳くらいの従業員が使っていない古いギターをくれたのですが、ギターの基本は全て母が教えてくれました。ギターを始め、3ヶ月ほどして、それなりに弾けるようになると、母の好きな曲のコード譜を渡され、自分が伴奏、母がガチで歌うという、親子デュエットが完成。かなり恥ずかしかったのですが、自分の生伴奏に生歌でメロディーが乗るとこんなに心地いいんだと感動しました。

ちなみに初デュエットはKiroroの長い間です(懐)

小学、中学は同級生80人程度の小さな小学校。
小さい頃から僕のことを知っている人は大きく頷いてくれると思うんですが、「集中力がない」「落ち着きがない」「協調生がない」「忘れ物が多い」という典型的な変な子どもで、小学校時代はよく一番前の席にさせられていました。

当時はスポーツが大の苦手で、背は小さいし、走るのは遅いし、体力はないし、ドッジボールとかサッカーなど、球技が大の苦手でした。

ただ、小学4年で卓球クラブに入り、顧問の先生が熱心に面白く教えてくれたおかげで卓球だけは夢中になりました。今でもバドミントンが大好きですが、競技の種類には何か通ずるものを感じます。

小学時代

小学校時代、一番記憶に残っていることは、5年生から委員会?クラブ?的なものに強制的に入らないといけなくて、中でも特に楽そうな「放送部」に入りました。放送部は昼食時から掃除の時間までのアナウンスを担当したり、音楽をかけないといけなかったりで、早めに昼食が食べられる特権がありました。ならば放送部に入ろうという不純な動機でしたが、これが意外に楽しかったんです。

当時昼食時に流す音楽は、学校にあるCDを使い回すのが恒例でした。
しかし、その音楽は今で言うところのフリー音源。これではテンションが上がらないだろ言うと重い、先生に掛け合い、予算をかけないという約束のもと、家にあるCDを流すことに成功!「聞きたかった音楽が流れてきて嬉しい」また、先生たちからは「よくあんな古い音楽を知っているね!懐かしい」という反響で味を占めました。

当時放送室には最新のCDプレーヤーがあり、家から持ってきたCDを朝の登校から放課後まで授業中以外は、全て自分の独断セレクションで流し続けました。

そのCDプレーヤーはカセットテープが2台挿入でき、かつ録音できる仕様だったため、CDをカセットテープに録音して、別の曲がブレイクでカットインし、綺麗に繋がって聞こえるように、録音を繰り返した末吉オリジナルマスタートラックを昼食時に週替わりで流しました(笑)
一緒に放送部に入った同級生ふたりに、自分の作ったマスタートラックの出来栄えの素晴らしさを永遠自慢し続けた取り返しのつかない放課後の不毛な時間。この場を借りて先祖代々お詫びします。

放送部に入って1年後、小学6年になったタイミングで上級生がいなくなり、ここぞとばかりに放送部の同級生ふたりを巻き込んで、火・金の昼食時、学校の生徒や先生をゲストに招いたリスナー参加型の10分間の番組を放送したいと交渉し。あらゆる手を使って、顧問の先生や教頭先生に連日プレゼンし続け、1ヶ月ほどかけて承認をとりました。当時小学6年。今こうして振り返ると本当にマセたガキだなぁと思います(笑)

毎週、生徒や先生をよんで、定型のインタビューをするというだけの、番組だったのですが、自分たちの力で企画してキャスティングして、周りのみんなを巻き込んで、公の場に送り届けるという達成感を感じることができる瞬間でもありました。同じ放送部のふたりには、だいぶ無茶振りをしていたかと思いますが、この場をお借りしてお詫び申し上げます。

長くなったので、小学校・中学校・社会人・フリーランス時代の4部作くらいにしようと思います。

駄文にお付き合いいただきありがとうございます。


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