社説

こんなに緊張感のない吐きだめでも、
良いと言ってくれる人や楽しみにしてくれている方がいるらしいのですよ。

とてもありがてぇ。


そして何より、
あたしに興味のない人には読まれへん。
これを読んでいるあなたは、
好きであれ嫌いであれ“わざわざ”Twitterのリンクを踏んで、どんな事を書いてやがるのか見に来てくださってるわけだ。

何の成果も得られませんよ。
言葉は全部、
「例えば、かも知れない、だと良いな、だったりして」をはじめとする装飾詞をくっ付ければ、
嘘でさえ新聞に載ります。
新聞なんて、大見出しの最後にちっっっさな文字で「、、、か」
で全てフワッとさせちゃうんだから。


自分の信じたものを信じ続けるのってホントに難しい。
自分の中で疑いを持つ持たないで完結する話じゃない、色んなところから情報が勝手にやってくる。
電車の広告、リビングから流れてくるテレビ
Twitterに漂流してたり、個別に連絡が来ることもある。

でもさ、信じるって勝手にこっちが抱いてる相手への期待なわけですよ、ドライに言えばね。

それをやめると言うことは、それをやめると言うこと以外の何でもない
そうでなくなった対象は、自分にとってそうではなくなっただけ。
そこで発生するマイナスな気持ちは、相手に勝手に期待してた部分が反比例して押し寄せてきてるだけ。

自分が誰かにとってそうでなくなったのは、
誰かにとって自分が、その範疇から外れただけ。

そう考えると、あたしは信じ続けているもの、人っておるんかな。
言い換えると、そこまで過度(語弊のある表現だけど)な期待を向けている対象って存在するんかな。

いや、いたんだけどそうじゃなかった時のこっちが勝手に背負うダメージにビビってそーゆーのやめちゃった、みたいなニュアンスが適当な言い方かもしれない

リアル側でもずっと付き纏ってる自負がある。
部下が何人いようと全然期待してない。笑

もともと根本にある、“杞憂”な自分の性分がそうさせているとも言える。
だから、予想以上の功績、結果に両手放しで喜べるのかも。


だからこそ、一過性であるそんな期待を慢性的に差し向けられているのは嬉しいし、何も返せないんだけど

少なくとも、在り続けて良いと錯覚するには充分な理由です。
どんなにあたしの藁人形に釘が打たれたとて、
あたしにその傷は届かん。

むしろ、その人形があなたを食い殺すかもしれん。
突然火がついて燃え移るかもしれん。

あと一個、どーしても書いておきたい事がある。










いや、ないわ。(ないんかーい

なんかね、言い方むずいんだけど
支払われる者から支払う者になったら、
もう2ヶ月間収入がないのよね。笑

時間の使い方見直さなきゃー
もう生き方が甘々だから、「いざとなったら」に向かってひたすら回り道してるわ

スタバで気取ってMacBook開いてタメ口で電話でる生活してーなー。

、、、か。笑



しょーち。


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