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日本画で2枚のスルメを描いた話

2008年のことです。
宝塚造形芸術大学(現・宝塚大学)のイラストレーションコース2回生だった私は、イラストコースのお父さんことO先生にお願いし、日本画の授業にまぜてもらいました。

そのとき描いたのがこちら。

スルメですね。
スルメですねとしか言いようがありません。
今年で母校がなくなるので、学校で預かってもらっていたこの絵を最近引き取りました。
これを描いた経験が、微妙〜に今の作風につながっているな〜と感じたので
今回はこの絵にまつわるエトセトラをば。



なぜ日本画に興味があったのか?
西洋画…というか油彩は高校で経験できたのですが、日本画は画材を触ったこともなかったからです。日本人なのに。

せっかく同じ敷地内に洋画、彫刻、写真、ファッション…いろんなコースがあるのだから、今のうちにできるだけのことをやらせてもらわなければもったいないじゃん?できないんですか?やらせてください!
と、お願いしたら「ええよ〜」とゆるいかんじで許可が出ました。
実際はいろいろ面倒な手続きがあったのでしょうが、やりたいと手を挙げればだいたいなんでもやらせていただけるありがたい環境でした。


西洋画と日本画の違いって? 

西洋画は濃厚・写実的・色の濃淡で陰影をつくる、
日本画は淡くあっさりした印象・陰影をつけるのでなく輪郭線を描く…
みたいなイメージもあるかと思うんですが、現在は互いに影響を受けているのでその限りではなく、定義は曖昧。
なのでざっくり「画材が違う」という解釈でいる人が多いんじゃないかなと思います。

西洋画 = 油絵具、テンペラなど
日本画 = 岩絵具、水干絵具、墨など

(↑他にも色々、ほんとに色々ありますけどね)
当時はとにかく日本画の画材を触ってみたい!という気持ちでした。


日本画の画材とは?

本格的なのは岩絵具ですが、このときは比較的お手軽な
水干絵具(すいひえのぐ)を使いました。

水干絵具(すいひえのぐ)は、天然の土、または胡粉白土に染料を染め付けた微粒子の日本画絵具です。伸びがよく、艶のないマットな質感が特徴です。市販されている状態では板状のかたまりになっているものが多く、溶く前にすりつぶします。絵具そのものに接着性はなく、膠液(にかわえき)を加えることにより支持体に接着します。「泥絵具(どろえのぐ)」とも言います。
武蔵野美術大学造形ファイル より引用)

要するに、
土などから作った「色のついた粉」を、
「膠(ニカワ)という接着剤」で、紙や絹に「貼り付ける」のです。

岩絵具はその名の通り岩…すなわち鉱石から作られた粉を使います。
なんかすごいロマンじゃないですか?日本画材売り場なんて魔法使いの工房みたいじゃないですか?
特に岩絵具なんて、孔雀石(マラカイト)や藍銅鉱(アズライト)が原料になっているんですよ。あの鮮やかな、宝石のような鉱石を砕いてできた粉を、動物の皮や骨から作った膠で接着して、絵を描くんですよ。
わくわくします。


実際に水干絵具を使ってみて

①水干絵具(小石のようなカケラ)をすりつぶして粉末にする
②ニカワ液と混ぜる
③↑に水を加えて、好みの濃度に調整する
④筆にとって、描く

ざっくり↑こんな工程なんですが…
動画を見てるとサラ〜と軽やかにできそうに思えるじゃないですか?

実際やってみるとめんどい。めっちゃめんどい。

水干絵具のカケラを乳鉢に入れて乳棒でゴリゴリするんですけどね…
これ、(色にもよるけど)そんな簡単に綺麗な粉末にはならない。
想像してたよりかなり時間がかかりました。
チューブを開けて水に溶かせばすぐ使える便利な水彩絵具なんかに慣れてると、描き始める前からこんな疲れるの!?て思います。
私は短気で雑なので、先生から「ちゃんと粒子になってないね。もっと細かくすり潰して」と何度も駄目出しが入りました。

ていうかまずニカワ液を作るのにもやたら時間がかかる。

液状で瓶入りのニカワ液という便利な代物もあるらしいですが。
私が体験した時は棒状のニカワをペンチでへし折ってカケラ状にし、それを火にかけて溶かし、液状になるまで待つという気の長い作業が必要でした。

まぁこの作業は私でなく日本画コースの子がやってくれていたのですが。
ニカワを固体から液体にするだけで軽く1時間以上かかるという…
なので登校してすぐにニカワを火にかけ、待ち時間で身支度を整え、ニカワの煮えるコポコポという小さな音を聴きながら、瓶から出した絵具のカケラをすり潰し…という流れができていました。

なんかほんとに魔法使いの工房みたいだな…ここだけ時間の流れが違う…
と感じたものです。


なぜスルメなのか

特に説明はされませんでしたが、たぶん長い時間をかけて描いていても変質しないモチーフがいいということなのだと思います。
生花だとすぐしおれちゃうけど、ドライフラワーなら大丈夫でしょというあのかんじですかね。デッサン教室によくありますよね、ドライフラワー。

現実に目の前にあるそれを、つぶさに観察し、紙の上に写しとる。
それは「うまく描けた絵」という結果でなく、「どれだけの情報を掬い上げられるか」という過程を重視する、精神修行のようなものだよなぁと個人的には思います。
それにはやはり相応の時間が必要なので、お付き合いいただけるモチーフは限られてくるよねと。

(拡大するとかなり粗い…)

私がデッサンというものを学んだのは、高校3年の秋〜冬あたりだったでしょうか。学んだというのもおこがましい、とても短い時間です。
高3の夏にはAO入試で合格が決まったので、受験のために必要だったわけではありません。しかし絵で食べていきたいならやっといたほうがいいだろうと思い、教室に通わせてもらいました。
で、まぁそこで

もー描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて描けなくて

このまま絵を描くということが嫌いになってしまうのでは?
という思いをしました。
やってよかったとも間違いなく思うんですけどね。
デッサンというのは、うまい絵の描き方…というか「こう描けばこう見える」という理屈を教えてくれるものなので。
足し算と引き算しか知らない子供が九九を覚えて、それ以前より楽に計算ができるようになったかんじ。だから、やってよかったと心から思います。

けれどそれはそれとして、デッサンというのは
下ッ手糞な絵しか描けない自分と延々向き合わなければならない一種の拷問でもあるので。

その高校の頃の拷問がここで再放送されて、ウワァ…となったわけです。
とりあえず九九は覚えたけど、その先に待ち構える連立方程式とか二次関数とか微分積分とかはね、九九を覚えた時よりも苦しいよね。てなもんで。
日本画の授業は1時間半×2コマの3時間やらせてもらっていたのですが、そのうちの30分〜1時間は校内散歩という名の現実逃避で消費していたような気もします。


ちなみにこのスルメの絵の実際のサイズは

515×725mmのパネル張り。

でかい。こんなでかいスルメ描いたことない。そもそもスルメなんてものをこんな真剣に描いたこともないのに。

現物のスルメと並べてみるとこんなかんじ。
(真ん中の小さいやつが本物のスルメ)

これだけでかいとほんと、描いても描いても終わらないんですよね。
前期まるごと使ってひたすらこのスルメだけを描いてました。
先生の予定では、スルメを描いたあとはマチエールを作ったりとかいろいろやらせてみようと考えていたらしいのですが、
「もうこの際これをつきつめてみようか?途中で放り出すのも気持ち悪いでしょ?」なんて。
「あ、ハイ。」
とうっかり頷いてしまったものだから真面目にスルメと向き合い続けなければならなくなって、
「カラーコピーを印刷するくらいの気概で描いてね」
なんて無茶ぶりにも「うぇっ、ハイ…」と頷き。
しかし、しかしです。
いくらスルメといえども、あまり長い時間放置すると徐々に変色してくるんですよね。
「ほんもののスルメのほうが色が濃くなってきたね。じゃあ絵の方も合わせて調整しようか」
「え、あ、はい、ですよね…?」

無限地獄じゃねーか!!!!!!



結局「完成した」というより「前期が終了したのでタイムアップ」というかんじで終わったのですが。
当時の「自分は一体何をやっているんだ」感はすごかったです。

「カラーコピーを印刷するくらいの気概で」
なんて言いながら、しかしそのための「技法」を先生は教えてくれない。
高3の時に通ったデッサン教室の先生もそうだったけど、ほんとに基本の基本を教えた後は「さぁどうすればいいかは自分で考えてみよう!」と放任される。
だって、上手い絵を描くことが目的じゃない。どれだけ対象を観察するか、そこから何をどれだけ読み取ることができるかの訓練なのだから、答えを教えてもらったんじゃ意味がない。見る・考える訓練なのだから。

わかっててもしんどいもんはしんどい。おのれ。
(自分が若い子に教える立場になったら、できるだけ言葉を尽くそうと心に誓いました)


とはいえ、ひたすらスルメと向き合って
「実はガイコツみたいなけっこう怖い顔してるんだな」
「こんな小さな斑点がいっぱいついてたんだな」
「こんなにちっちゃいけど立派な吸盤だな」
なんて発見をするのは楽しかったし。

わざわざ時間割変更してもらってまで延々とスルメを描いているなんだかよくわからないこの状況がちょっとおもしろくてウケてしまったし。
その後、ビジュアルデザインの授業にまぜてもらうときに「イラストコースだけど日本画でスルメ描いたりしてました!」と自己紹介したらそこそこウケたし。
さらにこの絵がきっかけでお仕事をもらえたりもしたし。

まったく無駄な経験だったわけでも、悪い思い出だったわけでもありません。
特に「じっくりと一枚の絵を描く」根性と、「描けない自分と付き合い続ける」という一種の諦めを得られたのはよかったです。
(これ、ある程度年齢を経てからだとしんどすぎて難しいと思うので…)



それと、「先生は技法を教えてくれなかった」と上述しましたが、今の自分の作風のもとになった技法をここで経験しました。
グリザイユ法です。


スルメを描くとき、
「まず最初に鉛筆と墨でモノクロ画を描いてください」
と言われました。
「え?」
「そしてそのあと、水干絵具で色をつける」
「えっと…でも、そうすると、モノクロ画はつぶれちゃいますよね」
「そうだね、塗りつぶしてください」
「ええと…? 下描き、というわけではなく?」
「モノクロコピーを印刷するくらいの気概で」
「ええ…」
「最終的に塗りつぶされるけど、先にモノクロで描くと、スルメの構造がわかるでしょう。いきなりカラーで描き始めるより、深みが出るよ。無駄にはならない」
「………」
そうしてモノクロコピーを作る気概で描いた鉛筆&水墨画はカラーコピーを作る気概でのせた水干絵具につぶされ、変色したスルメのあとを追ってさらにつぶされ…
なんだろう、諸行無常ってこういうことかなと思ったものです。

実際にはグリザイユ法を教わったというより根性論の精神修行だったような気もしますが(「グリザイユ法というのがあるんだよ」という論調でも別になかった)、この頃の私はカラーで絵を描くのが苦手でした。
この経験をきっかけに「グリザイユ法」を知り、自分なりにいろいろ試してみるようになったのです。
そういう描き方もあるのか、と知れたのは自分にとってちょっとしたターニングポイントになりました。
結果、

アナログ
→和紙(美濃紙)に鉛筆と墨でモノクロ画を描き、アクリルガッシュで彩色

デジタル
→ケント紙にシャーペンでモノクロ画を描き、Photoshopで彩色

という手法に落ち着きました。
(現在のお仕事では案件によってまたいろいろ調整していますが)



日本画の画材を使って絵を描くことも、現在の私の手法も、すごく面倒だし効率が悪いな〜と思います。
でもだからこそ醸し出される情感とか、そうでないと出ないオリジナリティというものはたしかにあるとも思えるし。
また「面倒だ」と思ったことをきっかけに逆に「効率のいい方法は何か?」と考えるようにもなりました。
水彩絵具ってほんと文明の利器だったんだなぁ開発した人すごい!とも強く実感したり。いろいろ、考え感じました。

今はお仕事としてコンスタントに描いていけるようにPhotoshopを使っていますが、あらためてこのスルメと向き合って、そのうちまた絵具もさわりたいな〜と思いました。
日本画は敷居が高く感じますが、あの気が遠くなるような静かで容赦のない時間はやはり得難い経験でした。
そして胡粉の白がとてもすき。
自身は日本画家の道には進まなかったけれど、岩絵具や水干絵具で描かれた作品を見るたびに、ああこの絵はあんなふうに丁寧に手間暇かけて生み出されたのだろうなという思いが馳せます。


10年ぶりに再会したスルメの絵は、今は自宅のリビングに鎮座ましましています。



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