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アインシュタイン(45歳)を救った、インドからの便り - その1

これまで20代半ばまでの、つまり無名時代のアルくんについて、当時の論文をあれこれ語ってきましたが、今回は40代半ばの、世界的名声を獲得して以後の彼について語ってみます。

1924年の6月、インドから彼のもとに便りが届きました。送り主の氏名は Satyendra Nath Bose とありました。なんて読むんだろう?とアルくんが首をひねったかどうかわかりませんがひねったと思います。「サティエンドラ・ナート・ボース」と読みます。封を開けると、こんなあいさつ文といっしょに、わずか4頁の論文が出てきました。

あいさつ文から見てみましょう。

Respected Sir:
I have ventured to send you the accompanying article for your perusal and opinion. I am anxious to know what you think of it. You will see that I have tried to deduce the coefficient 8v2/c3 in Planck's Law independent of the classical electrodynamics, only assuming that the ultimate elementary region in the phase-space has the content h³. I do not know sufficient German to translate the paper. If you think the paper worth publication I shall be grateful if you arrange for its publication in Zeitschrift fur Physik. Though a complete stranger to you, I do not hesitate in making such a request. Because we are all your pupils though profiting only from your teachings through your writings....

例によって DeepL さんにお願いしましょう。「うんいいよ」

拝啓:
ご高覧とご意見を賜りたく、添付の記事をお送りいたしました。この論文についてどう思われるか、ぜひお聞かせください。私がプランクの法則における係数8v2/c3を、古典的な電気力学とは無関係に、位相空間における究極的な素領域がh³の内容を持つことだけを仮定して推論しようとしたことがおわかりいただけると思います。私はこの論文を翻訳するほどドイツ語を知らない。もしこの論文が出版に値するとお考えでしたら、Zeitschrift fur Physikに掲載されるよう手配していただければ幸いです。あなたとは全くの他人ですが、このようなお願いをすることにためらいはありません。私たちは皆、あなたの教えから著作を通して利益を得ている、あなたの弟子なのですから......。


「どれどれ…」とノーベル物理学賞受賞者にしてアイザック・ニュートンをも凌駕してみせたと世評高きアルベルト・アインシュタイン教授(当時45歳)は、同封の論文(4頁)に目を通してみました。

すると…



とんでもないことがそこには綴られていたのです。


アルくんはその昔、巨匠マックス・プランクの打ち立てた「量子仮説」に真っ向から挑戦する論文を出していました。無名時代にです。これまで本ブログで取り上げてきたうちのひとつです。1905年。当時26歳。

この論文、発表当時は反応らしい反応がなくて、翌1906年に続編的なものを書き上げて世に問うたときも、やはりこれといった反応はなかったそうです。

それでも本人は確信があったのでしょうね、翌1907年には物性物理のほうでこれの続きを論文にしていて、さらに1909年には彼得意の思考実験を駆使して「光には波と粒子の両方の性質がある」と算出していました。

これ以後は、後に一般相対性理論と呼ばれることになる重力理論の研究にその頭脳をシフトさせていくわけですが、この理論がとうとう方程式の頂きに達した1915年の暮れより、再び光量子論に戻ってきました。


翌1916年には、こんな論文を刊行しています。

彼の光量子説には、それまでずっと、ある弱点がありました。彼の理論では、マックス・プランクが1900年に打ち立てた「プランクの公式」を導出できないのです。そこを強引に導出してみせたのが、上で紹介した論文です。1916年。

ただこれは本人も論文中で述べているように、仮説に仮説をのっけたところにさらに仮説を重ねての導出でした。数十年後にレーザー光線の原理として再評価されることになる論文ではありましたが、当時の物理学者のあいだでは。おそらく「プランク公式を意地でも捻りだすための強引な論」と受け取られて、それ以上の評価はしてもらえていなかったと想像します。

ところがこの8年後、つまり1924年になって、インドからくだんの便りがアルくんのもとに届きました。

そこにあったのは、彼の光量子説から、プランクの式を導出する、ウルトラに素朴かつ簡明かつ明晰な計算式でした。

アインシュタイン教授どのはすっかり仰天して、インドに返信しました。よしわしがドイツ語訳やっちゃるし、この科学誌に投稿しちゃるからちょっとだけ待ってなさい、と。

これが実際に掲載されたものです。いいですかたった4頁で、アルくんを心底驚愕させた内容です。

赤で括ったのは、訳者アルベルトによるコメントです。"Anmerkung des Ubersetzers. Boses Ableitung der Planckschen Formel bedeutet nach meiner Kelnung einen wlchtlgen Fortschritt. Die bier benutzte Me, bode liefert auch die Quanten heorie des idealen Gases, wie ich'an anderer Stelle ausfiren will."

訳注:ボースによるプランク公式のこの導出法は頭一つ突き抜けたものと考える。理想気体について量子的に考える際の足掛かりともなるだろう。詳細は後に私が論証する。


事実この数か月後、アルくんはボースが提唱した超シンプルな計算法を使って、ある画期的な説を提唱します。余談ですがこの1924年には、ハイゼンベルク(当時22歳!)が今でいう量子力学の幕開けとなる論文を出して、さらに翌年にはアルくんとも交流があった中堅物理学者シュレディンガーが同テーマでさらにキレッキレな論文を立て続けに刊行して彼を感涙させたりと、ヨーロッパ物理学界は大波乱の時でした。

ボースによるたった4頁の論文が、この大波乱のなかで、どんな重要性をもったのか? 

それはまた後の機会に論じたいと思います。

若い頃の私の父となんとなく似てる…

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