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群・環・体を「足し算」「掛け算」「割り算もOK」と言っていけない本当の理由

数学はある時点より事実上の独学に切り替えて、独りでひいひいいいながらこのわけのわからない山と谷に満ちた山脈を縦断横断上ったり下りたりしてきました。「~た」と記しましたがこれは英語でいう過去形ではありません、現在進行形に近いニュアンスです。かっこつけて謙遜しているのではありません本当です。

そのうえ私のアタマの中には、いつも物わかりの悪い院生さん(なぜか♀)とそのお仲間の坊ちゃん嬢ちゃんたち(留学生も含む)がいて、私がどんなに準備して講義しても、質疑応答で素朴すぎる質問を真顔で仕掛けてきます。私は教育実習生じゃないぞと戸惑うところにこの学生たちの指導教官プロフェッサーが助け舟のつもりで口を挟んできて、ほとんど出まかせに近いことをくっちゃべって生徒たちを納得させにくる…そんなヴァーチャルなやり取りがいつも私のアタマのなかで繰り広げられるのです。もはや強迫観念化しています。実際にそういう経験をしたことが一度あって、未だに何かものをかいているとその時のことが蘇ってきて、まるで黒澤の映画のなかで気の狂った老武将が「ああ苦しい、誰かこの胸を開けてくれ!」と叫んで心臓停止するシーンにあの役で出演しているような気にさえ…というのはホラですそこまでは苦しくはありませんがそれでも気がおかしく、というか可笑しくなってしまうの常日頃。

独りで学んでいて落っこちた谷のひとつに「群・環・体」があります。「なあんだ」と思った方も多いでしょうが私はひどい目に遭いました。群論の入門書は、ブルーバックスをはじめ仰山あって、数学エンタメ本の定番といっていいほどです。よくあるのが「あみだくじガ~」で始まるパターン。でなければ「五次方程式の解ガ~」と駆けていくの。『数学ガール』ではたしか登場人物のひとりが「それぞれ足し算、掛け算、割り算までをカバーする」みたいなことを述べていました。粗雑ではありますが簡略化するとそういう説明もアリでしょうか。

むろん正しくはありません。だいたいの感じを掴むには、このくらい粗雑でもアリかなーってことっです。厳密にいえば「足し算」をカバーするのは「群」ではなく「可換群」ですし、「掛け算」をカバーするのは「環」ではなく「可換環」です。

「群」「環」「体」のほかに「可換群」「可換環」を加えて、合計五つ。

足し算、掛け算、割り算を語るのにどうして三つではなく五つ要るのか? 理由のひとつは、足す引く掛ける割る(以後「四則演算」と呼びます)を絶対根拠に置かないのが大学以降の数学の決まりだからです。

この世のすべては複数原子の組み合わせでできていると習ったところに「実は原子ってもっと分解できるんよ。電子と陽子と中性子にね。三種類の素粒子」と切り出されたら、戸惑いませんか。かつて科学者たちは原子の内部構造を突き止めた時、この戸惑いを覚えました。

数学において四則演算は、物理学における原子にあたるものでした。私たちもしょうがっこうで、足す引くを習い、掛けるを習い、割るを習いました。これがさんすうだよって。

しかし19世紀後半に、これをもっと分解できるんやないかと一部の数学者たちが言い出して研究を進めていったのが「群・環・体」でした。

もっと正確にいうと、当時の数学者たちは方程式の研究をしているうちに、方程式の解をめぐって「群・環・体」の考え方が便利だと突き止めていって、せっかくだから四則演算という数学原子にもこれを応用してみたら、「足す」「掛ける」「割る」という数学最小原子と思われてきたものがさらに分解できてしまったのです。

例えば「足す」は「群」と「可換」の二つに、「掛ける」は「環」と「可換」の二つに分解できてしまいました。

そういうわけで「足し算」については「群」と「可換」で「可換群」という風に、新たな分類を編み出したのです。19世紀後半のことでした。ヨーロッパですいうまでもなく。

群論入門の本はいろいろ目を通しましたが、こういう説明をしてくれるものは皆無ですね。

群艦隊…なんちゃって

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