なぜジブリ放映日にドルが下がるのか。 「ジブリの呪い」についての一考察。

経済が発展すること。

それは良いことであり、それが進むことで様々な不便が解消される。

飢餓や貧困の克服。あるいは社会そのもの繁栄には自由市場主義というのが最も効果的である…というのは20世紀に証明された。自由市場と経済発展が(今のところ)最大の正義みたいなところがある。

ただ。

経済発展というのはどこかで頭打ちがあるような気もする。木造の平屋建の家が立ち並ぶよりコンクリートビルが建つことの方が確かに経済発展的ではあると思うが、じゃあコンクリートビルが無限に建つことが発展かというとそうではない。人口には限りがあるのだからビルが建ちまくるとそのうち空き部屋問題というのは出てくる。それに何でもかんでも巨大化・生産化するのが豊かさとは言えない…というのが最近の経済事情を見てもわかる。巨大百貨店の売上は落ちるのに地方の掘っ立て小屋のうどん屋に200人の行列ができるのを見ると必ずしも大規模、都市型、豪華さだけが市場ニーズとは限らなかったのだということを思い知らされる。大規模開発は自然も壊すし環境負担は大きい。経済発展を最も効率よく支えたかに見えた建物やインフラの巨大化とか大量生産は必ずしも豊かさにはつながらないという曲がり角に来ていると感じる。

そして、生産と消費があまりに大規模になりすぎると、マーケットは希少なものに価値を見出したり小さなものに美を感じ始めるという性質を持っている。大規模に行きすぎた経済発展はどこかでターニングポイントを迎えるのだ。それを景気循環と呼んだり好景気・不景気と呼んだりするのだろうが、ボクが特に注目したいのは1960年代~1970年代の世界の大きな変化についてである。この時期にひょっとして人類全体が経済発展の何か大きなターニングポイントを迎えていたのではないか?と思うのである。

ここで突然、音楽の話になるのだが。

同じリズムを延々と繰り返す「ミニマルミュージック」という呼称・音楽ジャンルは1960年代にアメリカで生まれた。テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスなどが大物と呼ばれるが、この音楽ジャンルを生んだのがアメリカ人だったというのはとてつもなく大きな意味を持つとボクは思う。元々、ミニマルミュージックというのは農耕民族の音楽で・・・言葉は悪いが・・・そこらに吐いて捨てるほどあった。盆踊りだって延々と同じリズムを繰り返すミニマルだし、阿波踊りもそう。インドネシアのガムランなんかもそう。ミニマルミュージック、ミニマルリズムというのは元々は農耕民族の音楽であり、種を巻いて刈り取りをする・・・これを繰り返す文化から発信される音だった。延々と種蒔きと収穫を繰り返すだけで発展が何もない、成長率がゼロだということで、かの経済学者カール・マルクスはそれを「アジア的停滞」とも呼んだ。ミニマリズムは停滞の証でもあった。

しかし、高度な文明を築いたはずの白人たち、特にアメリカ人が、どんどん文化も音楽も進化していくのかと思ったら・・・1960年代から彼らはミニマルミュージックをやり始めるのである。そして、それがグラミー賞を取ったりする。スティーヴ・ライヒだけではない。ポピュラー音楽全体を見渡してもヒップホップ、テクノ、ハウスという新しい都会的音楽が1970年以降次々にアメリカで生まれたが、それらはなんということか…例外なくすべて繰り返すリズムの音楽ばかりなのである。

文明全体が何か大きなターニングポイントを迎えたのではないかと思わせられる現象である。

ここで翻ってスタジオジブリの作品について考えてみよう。

ジブリの音楽を担当する久石譲はスティーヴ・ライヒなどのミニマル・ミュージックを研究していたという経歴を持っている。ジブリ映画で流れる音楽は、どれもシリアスで透き通った透明感を持ったサウンドであると思う。あの透明度の高いジブリサウンドの根っこはミニマルミュージックにあり、そのミニマルミュージックというのは自然回帰的なメッセージを本質的に持っていた。そのような音楽をバックグラウンドに持っていた久石譲のサウンドは宮崎駿監督の描くアニメーションの世界観にピタリとハマった。

今更、確認するまでもないがジブリ作品・宮崎アニメというのは森や海という自然を背景に、子供や小動物という小さな主人公たちの視点でもってストーリーが描かれる。溢れるほどの小さな優しさに満ち溢れていて、おばけや幽霊のような登場キャラクターですら同じ自然空間の中で呼吸をする愛らしい生き物として描かれている。その作品の優しさの魅力は子供だけでなく大人も巻き込み、日本人だけでなく世界を巻き込んだ。

20世紀の経済発展は目覚しい豊かさと繁栄を実現した。

しかし、その繁栄の裏では、大規模な自然破壊があり、ゴミの大量廃棄があり、少数意見を数の理論と富の力で踏みにじって進んできた強引さがあった。巨大な商業施設はできなくても森は森のままでよかったのではないか。河川や海岸線はそこまで無理してコンクリートで固めなくてもよかったのではないか。それはあるがままの状態で良かったのではないか。そもそも子供の遊び場が無くなってボール遊びもできなくなった社会空間が豊かと言えるのか。そんな経済発展の矛盾やマイナス面を指摘する声や視線は、きっとあったに違いない。だが、そんなのは所詮、少数意見。決して届きはしない。

決して届かない少数意見。

決して見向きされない小さな視点。

宮崎アニメ、ジブリ作品はここに目線を置いた。

そして。

特段、何もない、ただの森や海。

高度な科学技術も何も入ってない、そのままの、あるがままの自然。

ここを物語の舞台とした。

あるものを、そのままの視点で、見る。

この視点を作品の切り口とした。


話はもう一つ変わるが、20世紀に入ってからの哲学、心理学は危機感に満ち溢れていた。話を端的に進めるためにズバッと書くが、それは「脱西洋文明」というテーマにおいて格闘していた。フッサールやユングといった20世紀初頭に登場した学者たちは西洋文明に危機感を持ち、それまでの西洋の価値観とはまるっきり反対方向とも言える方へ向いていた。

「見えるものは、もう、そのまま見えるままの認識で良いのではないか。」とエドムント・フッサールは言った。客観的な正しさを追求するより、我々の素直な見え方に問題の視点を置くべきではないかということを問題提起した。今まで客観的事実をひたすらに追ってきた科学や哲学に背を向ける提唱だった。そして、このフッサールの提唱したモノの見方の転換は想像を絶するほどの影響力を持った。心理学のユングもこれに影響を受けた。人間があるものをただそのままの状態で見たとき、ユングは「世界中の誰しもが共通したモノの見方というのを持ってるではないか」という仮説を立てた。ふっくらとしたものには母性を感じたり、透き通ったものには美しさを感じたりetc 

民族学者のレヴィ・ストロースはさらにこのフッサールやユングの思想を継承しつつ、それをさらに大胆に捉えて考えた。宇宙から地球が生まれ、そこから生物や植物が生まれている。それらは生まれた根っこはそもそも同じだ。だから自然のあるがままの状態で、みんな同じ感性や知性をすでに持っているのではないか。こんな仮説を立てた。そして、レヴィ・ストロースは高度に文明化された西洋文明、都市文明とまったく同じ水準の知性を南米の未開原住民も持っていると主張した。それだけではない。西洋文明などただの傲慢に過ぎないとまでも言った。そのレヴィ・ストロースの主張と西洋哲学界は言論において全面衝突し論争を繰り広げた。(論争の結果は100%西洋の負けだった)

客観的な数字や科学的な態度というのは理論としての正しさを持つ。しかし、その正しさというのはいつしか暴力的になるのではないか。そもそもそんな暴力性で西洋文明は危機に瀕してはいないか。モノの見方そのものを変えてみよう…と最初に提唱したフッサールの危機感。それは20世紀の経済発展の強引さや大規模な世界戦争を引き起こした科学への警鐘だった。

話が大きくズレたので元に戻そう。

経済文明が大きく発展していった時、その反動としてか、アメリカでミニマルミュージックという音楽が生まれた。繰り返す自然的価値観の音楽の復興があった。哲学、心理学、民族学という学会からも科学や客観に絶対的な根拠を置くモノの見方に疑問符を投げかける学者が続々と登場した。20世紀はほとんどその流れだった。脱西洋文明の流れが生まれていた。

そんな時代の流れの中で20世紀の最後に登場した宮崎アニメ、スタジオジブリ作品は、アンチ文明的、脱西洋的なモノの見方という様々なものを集大成にしたような内容だった。久石譲の音楽。あるがままをそのまま捉えようとする小さな視点。そしておそらく世界の人たちが共通して持っているのであろう優しい人間らしい意識や自然そのままでも決して高度文明に負けることはない感性や知性。そこには科学が到達できない豊かさを見ることができた。20世紀の音楽運動、思想運動を集約したかのような控えめながらも強いメッセージがそこにはあった。

そして。

結論に至るのだが。

結論と言いながらも、ここから先はわからないことである。

難しいので決して詳しい紹介はできないのだが、量子力学という分野がある。これも20世紀に生まれた分野だ。詳しくは書けない。難しいから、わからない。

が、しかし。

数多くの人がテレビ放映されるジブリ作品に心を奪われ、その作品に見入る時。

数多くの意識がそこに向かう時。

一体、何が起こるのか。

何か共通した意識というのが、具体的に何かを引き起こす力を持ったりはしないのか。

わからない。

わからないが、スタジオジブリの作品がテレビ放映される時。その時。

経済発展、経済文明のいわば象徴とも言えるドルと株価が引き下げられる。

なぜなのか。理由はわからない。

でも、思う。

こんなことが起こって不思議なのだが、あまり不思議でもない。

宮崎監督の、久石譲の、スティーヴ・ライヒの、フッサールの、ユングの、レヴィ・ストロースの、それらの意思がアンチ経済文明というテーマの元に一本の線で繋がいると仮定するのなら。

それは不思議ではあるけれども、納得のできる話であると思うのである。

個人的にだが、この起こってる不思議なことを、ただ、そのまま受け止め、この仮説を立てたいと思う。

スタジオジブリの作品が放映される時。

また、ドルと株価は下がるだろう。

それらはアンチ経済文明という意思でつながっているのである。

逆に言えば、今回、ジブリ放映日にドルと株価が下がる現象をじーっと見ながら考えた時。ボクはフッサールの言ってたことがようやくわかったのである。あの難しいフッサールの言い分がわかったのである。ジブリ作品の持つ知性に大きく感謝したい。

https://youtu.be/R36S3Kldj80



















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