見出し画像

読書について。

「たくさん本がありますね」と言われます。「それ全部読んだんですか?」とも聞かれます。「本を読むと知識がついて賢くなりますよね。」という人もいます。そういうことを言う人は「本を読む=エライ」とか「本を買う=本を読む=知識がつく」だと思っている方が多いです。しかし、ちょっと違うんです。

例えば切手が好きな人が切手を集めます。「それ全部使うんですか?」と聞くのはナンセンスです。その人は切手が好きなんです。使うとか使わないとか、換金性があるとか、そんなことカンケーなく、その人は切手そのもの好きなんです。これは切手が好きな人にしかわからない感覚だと思います。

それと同じで、自分が本を買うのは本が好きなんです。読んで偉くなるとかそんなこと考えて買ってません。ミニカー好きな人が部屋にミニカー並べたいように、自分は部屋に本があって欲しい。もちろんおおよそ読みますが途中で読むのやめてそれっきりのものもあります。でも、それでいいんです。

今日、同業者のある男性と日経平均の話をしてて、そこから相場心理学の話になって、賭けの考え方という本があるんですよ、イアン・テイラーって人が書いたんですよという話から、ドストエフスキーもギャンブル好きだったみたいな話になって、そこから「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」の話になり「本が好きなんですか?ボクもです!」みたいに意気投合したんですが話してて思ったのは自分もその人も本が好きでその好きの延長でドストエフスキーを読んでる。だから図書館で借りるとかじゃなくて持ってるんですね。読むのが目的でないところがあるんです。へんな話なんですけど。

だから本好きな人間が話をすると、本の話からどっち方面の話に行くかというと…本の収納の話になるんです。



中学生には推理小説、恋愛小説を読ませよ

評論家で言語学者の外山滋比古(とやましげひこ)さんが昔言ってたのですが「良書とか悪書とかいうのは無い。本を理解する咀嚼力は人によって違うし、この人にとって生涯に残る本でも違う人が読めば解釈は変わる。本をたくさん読めばいいとかいうものではなく咀嚼力に応じた読み方がある。」みたいなことを書いてて「その通りだ」と思ったことがあります。学校の推薦図書とか言って夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治とかを若い人にすすめてますがボクからしたらハッキリ言って「正気の沙汰とは思えない」と思います。ボクの知り合いで若い時に太宰治を読んで「人生は虚しい。何もしたくなくなった」とまったく働かなくなった人を知ってますし、若い中学生とか高校生とかに森鴎外を読ましてどうするんだろ、本を嫌いになれと言ってるようなものではないかと思います。

リンボウ(林望)先生が、「本は寝っ転がって読むもの。」と言ってたのは大正解だと思うし本が好きになるなら最初は推理小説か行き過ぎない程度であれば官能小説やポルノ小説でも良いとボクは思います。我が家では世界名作文学の中学生向けのセットがあるのですが、あれを全部、中学生の次男に読ませたところ「一番面白かったのは?」と聞くと「バール・バックの大地!めちゃ面白かった!」と言いました。全然面白くなかったのは?と聞くと「ゲーテ!」と即答。素直な感覚でいくと絶対こうなる。ゲーテが面白いわけがない。しかし学校はゲーテは文豪と教える。あと日本の文豪と言えば森鴎外。そういうのを生徒に読ませる。あれは先生が本を読んでない証拠だと思うんですよね。

本は手元に置く。読む読まないはそれから。
そして本は境遇の差を超えさせてくれる。

ただ、手元に置く。それだけに意味があるのです。集めていくうちに種別、体系、に理解が及ぶ。例えば哲学に詳しくなろうとして、あくまで読むためにヘーゲルの本を買って、あくまで読むことだけを意識してたら、もうそこで止まります。

違うんです。

本は読まなくていいから好きなら買って集めるんです。積読ありきなんです。そしたら部屋で本を並べるのに「えーと…フッサールはヘーゲルの後だからこっち」みたいになって違う方向から理解が進むんです。だから本当に本を読むということは自分の本棚を作るということと深く関係してくるんですね。

貧乏になる読書とか金持ちになる読書とかそんなのはありません。読んでエラくなるとか言う人いますが別にエラくなるために読むのではないのです。全然読書しない金持ちなんてわんさかいるし、本ばかり読んで仕事してない友人もいます。全然エラくないでしょ、それ。

「本は立って読め」とか何それ。本は寝転んで読むんですよ。で、途中で寝落ちするんです。寝落ちせずにガーって読めた本が自分の中に入ってきた本です。

本を読むのは、静かな空間にいるのが好きな人間にとって最高の娯楽なんです。それを書いた人がいて、それを読む人がいて。そこに感動があったり共感があったり賞賛があったり酷評があったり。歴史が作られることがあったり。本には色々な人の視点や考え方や人生がある。それを読んで気づいたり感心したり笑ったり怒ったりするわけです。

本は読み手を選んだりしません。

財閥の御曹司に生まれることはできませんが、財閥の御曹司が読んでる本と同じものは読めるはずです。

本とは、置かれた境遇の差、貧富の差を超えさせてくれる最も簡単な方法でもあるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?