見出し画像

また金沢に行った

新宿駅が苦手だ。
できるだけ新宿駅で遊ぶ予定は入れないようにしているし、乗り換えも極力避けている。絶対に新宿に行かなきゃ行けない時は、新宿三丁目から歩くこともある。

2021年3月14日の昼、新宿のフルーツパーラーで、パフェを食べていた。大学3年の時に現象学の授業で一緒になり、ずっと喋ってみたかった他学科の先輩を別の友人に紹介してもらった、念願の会だった。すごく楽しかったはずなんだけど、何も覚えておらず、御礼の連絡もできないまま3年も経ってしまったことを小さくずっと後悔している。

先輩と友人と別れたあと、JR新宿駅の南口のトイレに並んでいるとき、よく知る名字の、知らない名前からのFacebookのメッセージに気づいた。電話をかけて欲しいという言葉を見て、トイレを出て、その番号に急いでかけた。昨晩から既読がつかないな、と思っていた友人からの返信が、永遠に来ないことを知った。

彼女のお母さんとの電話を終えたあと、座り込んで、ひたすら泣いていた、と思う。その時の自分のことはよく覚えていないけれど、汚れた駅の床の近さと、周りを通り過ぎる人の足元の景色だけ、無理やりシャッターを押したみたいに妙に頭に残っている。

場所と経験があまりにも強く結びつくと、その場所は記憶と感情を強制的に思い出させる装置となる。新宿駅は私にとって、人生で最も辛い瞬間が訪れた場所になった。まだ、あの日のことを追体験できるほどには強くなれないから、もうしばらくは新宿駅を回避する生活を送ると思う。

ある日、いつも通り新宿乗り換えを避けて恵比寿で乗り換えながら、場所によって記憶と感情が蘇るなら、もう一度金沢に行こう、と思いついた。
亡くなる数日前に2人で訪れていた金沢に行けば、楽しかった記憶や、書き残せていない出来事が思い出せるのではないか。時間の経過とともに少しずつ手触りを失っていく彼女との思い出が、少しでも鮮やかになるのではないか。


そうして今、金沢に来ている。


3年前とほぼ同じ日程(1日違い)で、全く同じ時間の新幹線と、同じ座席を取って、同じホテルをツインで取って、同じルートを1人で周って、同じものを食べ、あの時彼女が家族に買っていたお土産を、同じ店を訪れて買った。

正直、期待していたほど劇的にエピソードが蘇ってくる訳ではなかった。こんなとこまで何しに来たんだろう、と思った。茶屋街の甘味屋でパフェを食べながら、何を2時間半も喋っていたのか、同じ場所で同じものを食べても、全然思い出せなかった。兼六園で彼女が作った曲を聴かせてもらった時、私はなんと言ったのか、彼女はそれになんと返したのか、同じベンチで曲を聴いても、思い出せなかった。

それでも、不意に道を曲がった時、急に「あれ、指輪の話をした気がする」と思い出してそのまま歩くとほんとに指輪専門店があったり、いたるところで3年前の記憶は湧いて出てきた。知らない街の中に既視感を見つける度、隣で一緒に騒いでいた楽しげな声を思って、ニヤニヤしたり、さみしくなったりした。それだけでも、やっぱり来てよかったと思えた。


--

新宿駅のあの瞬間から、人生観というか、考え方が変わった。元々現実志向だったのが加速し、未来のことが全然考えられなくなった。誇張でも強がりでもなく、心から、別に明日死んでもいいと思っている。心を病んでも、身体を病んでも、人はあっという間に死ぬ。友人が亡くなってから11ヶ月後、別の友人が亡くなったときには、信じてもいない神を呪った。どうして私の友達ばっかりが。

そうやって自分のこの先から目を逸らし、瞬間に対して100%で生きることは、さみしさでどうしようもならないようにするための自分なりの防御手段だったと思う。

去年の夏頃、友人の1人と1週間くらい連絡取れない時期があった。過去の記憶と感情がフラッシュバックした。本当に心配した。いや、心配とは違うかもしれない、早め早めに最悪の想像をして心を守るような数日間を送っていた。

もしかしたら単にスマホ壊れたとか無くしたとか、あるいは仕事が忙しくてくだらないLINEに返してる暇がないとか(実際、私が送っていたのは「ピーナッツからジーマミー豆腐作るけど来ない?」だった)、そういう結論かもしれないのに、もう、病的に、最悪の想像から逃れられなくなっていた。だって、2人とも、ふっといなくなってしまったから。連絡が取れたのがあと数日遅かったら、家に押しかけていたと思う。

会社からの帰り道、一緒に心配してくれていた別の友人から、別件で彼女から返事が来たとLINEが来た時、心からの安堵と、その直後物凄い勢いで襲ってきた「けど、あの子に送ったLINEにはまだ既読がついてない」という寂しさと悲しさと空虚感で、凄く泣いた。
会えなくなってしまった友人達のことは常に鈍く悲しいが、亡くなった直後の感情に近い、刺すような辛さに襲われるのは久々だった。こんなに痛いのか、と、俯瞰して驚く自分もいた。

痛みを感じるのは、喪失を受け入れ始めたからなのかもしれない。徐々にではあるが、楽しかったことも、悲しさもさみしさも、後悔も、未来も、自分で引き受けられるようになってきた気がする。今でも変わらず明日死ぬつもりではあるけれど、あと100年生きようよ、と誘ってくれる声に、「明日」を36500回重ねるのも、ちょっとアリかもと思えるようになった。

--

頭を空っぽにしたくて金沢の街をぐるぐると歩きながら、今までのことを思い出した。

初めて出会った中1の春、掃除用具で組んだバンドでドラム代わりにして凹んだチリトリと折れた箒、全力でふざけようよ、と臨んでもらった生徒会選挙の応援演説で大ウケしてしまい予定が狂ったこと、教室の暖房でチョコを溶かしてチョコフォンデュをしたら、匂いがヤバかったこと、運営側だから私は出られないのにスタジオ練習に参加させてもらった中3のCMソング合唱団、互いの夢についてよく話していた高1の夏休み、喧嘩した高2、鍵を壊して入った屋上でエモ写真を撮った卒業前、向こうが浪人していた時期は予備校近くのサイゼでたまに会っていたこと、一緒に観に行った映画、その後食べたもの、トイザらス縛りでクリスマスプレゼント交換をしたこと、風の強い日に凧を上げて、どこかに飛んでいってしまったこと。

今週末は家に遊びに行かせてもらうことになっている。金沢のお土産を渡して、思い出した色々なことをご両親に伝えて、またギターを弾かせてもらおうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?