怨恨の応酬 2023/02/13の日記

昨日の分の日記を書いてから今日の分の日記を書いている。何かがおかしい…。


YouTubeで陶芸の失敗動画を見ている。それまで綺麗に形成されていた器がちょっとした力の具合で急に全部ダメになってしまう瞬間がシュールで面白い。

物が回転しながら変化する様子を見るのが好きなんだけど、金属のカッターとかプレス機だといらない想像をして怖くなってしまうので、陶芸だとそういう不安があまりないのも嬉しい。指とか巻き込んだらどうしよう…とか思わないで済むから。

それにしてもここまであっさり崩れるのを見てるとやっぱり陶芸って難しいんだな。もっと土の塊をグニャグニャ伸ばしたり曲げたりできる自由度の高いものだと思っていたけど、作ってる様子は想像以上にデリケートで驚いた。

調べたら、実際にグニャグニャすることはあって、それを経てろくろを使って丁寧に形成する工程になるらしい。あと、硬い土をグニャグニャして表面を綺麗にするだけで焼成に移る方法もものによってはあり得るので、私のイメージもあながち間違いじゃないみたいだな。

見てたらちょっと陶芸に興味出てきたな。いつか機会があれば体験してみたいかも。


この漫画、タイムラインに流れてきたけど「元ネタです」と言われてるのに私が全然ミームを知らなさすぎることにおもしれ~と思った(このミーム自体は別段面白いとは思わない)。

いわゆる「親ガチャ亅論が積極的に話されるような状況がここ一年ぐらい続いていたけど、今度は逆にそれがただのルサンチマンであることを看破しようとする動きが見られるようになりつつあるな(ここで言うルサンチマンとは「自分の不幸や苦しみの原因を他人のせいにして自分の不幸は親のせいだ、と親を恨み続ける人」のこと)。

これに関しては、両者とも事実を述べていると思うし、だからこそこういった揺り戻しが起こり続けているのだろう。

確かに実生活や社会で上手くやっていきたいなら自分の怨恨には区切りを付けて頑張るしかないし、その反面、そうやって動き出す原動力もそれを取り巻く環境がダメならどうにもならない場合が多い。なので、この対立構造における一番の問題は論理的な次元ではない。

つまり、最も問題とするべきなのは、この議論の目的が力への意思を巡る問題の解決から、相手を指摘することで自らの力を競争的に誇示することへと変容して、その攻撃的なカタルシスがさらなるルサンチマンを呼んでしまっていることだと思う。

いわゆる「事実陳列罪」みたいなスラングとか、シグルイの師範代(だったっけ?)の画像を貼るミームもそう。結局その原動力が気に入らない意見を言う奴を打ち負かして嘲笑したいというルサンチマンに帰属しているからいつまでも問題が解決しない。

つまり私が何を言いたいのかと言えば、結論はニヤニヤしながら言い渡すものでも、即物的に自分を安心させるためのものでもない、ただの記述的な結果だということです。議論や問いの重要性という前提が抜け落ちてしまえば、それはもう批評ではない。

でもまあ、それでいいならいいんじゃない?という気持ちもある。重要な議論は常に究極的な問題を解決するためだけのものとは限らないと思うし、私もそういう性格の悪さみたいなレトリックを弄することは結構多いので…。

あー!あんまり好きじゃないのにやたら教化的な話をしてしまった。でも話題がないのでこうやってキモくなるしか文字数を稼ぐ方法がないんだよな。うごご…。


気分を変えて音楽の話をしよう。

The Smithsは普段はあんまり話題に出さないけど、実はかなり好きというか、自然と毎日聴いている気がする。

この曲、原曲はドラムのイントロからいきなり歌だけど、ライブだとリフを一周させてから歌が入るようになってるな。個人的にはそっちの方がワクワク感があって好きかもしれない。もちろんどっちもすごく良いが。

詞もわかりやすくて読み取りやすいのに意味のある内容をしていて助かるね。これは英語が便利だからなのか知らないけど「体が心を動かすのか、心が体を動かすのか」みたいな歌詞をサラッと入れられるところはやっぱり上手いと思うし、そういう話をしても韻とかリズムがダレずに、それどころかいわゆるパンチラインみたいに扱えているのもカッコいい。

イギリスのオルタナティブロックとかその辺りのジャンルって今どんなアーティストがいるんだろう。私は日記だとまるで音楽について博識かのような顔をしてるけど、実際はほとんど詳しくないことの方が多いので、こういうときにめっぽう弱いね…。アクモン以降のイギリスの若手について知っている人がいたらぜひ教えて下さい。


全然何も関係ないけど「人脈マジ最強」って言ったことないから言ってみたいな。

私は基本的に落ち込んだ人間なので、できたとしても落ち込んだ友人同士のネットワークが構築されているだけなのだろうけど、なんか音の感じとか言い易さが面白い。でもこういう言葉を使う人ってなんとなく苦手だ。

その言葉に伴うものへの苦手意識が言葉自体に移っていると気軽に言葉を発せなくなるから面倒だと思う。

もっとなんの脈絡もなく色んな言葉を使いたい。社会や倫理から切り離されて、ただの音としての面白さを持った言葉を。

でも、実際には言葉とは社会の中で意味を獲得していくものなので、それを切り離して面白がろうとする行為自体も「それを切り離そうとするってことは…?」みたいな形で意味付けられてしまうので逃げ道がなくてダルいな。

それにしても本当に意味のない言葉を発することは可能なのか。既存の辞書に無い言葉でも、それを意思した時点で「意味のないことの意味」を見出されてしまうのでは。

そうなった場合、今度は既存の言葉について「これは一切の意味を持たない単語である」と決定するのはどうだろう。

例えば「あんパン」という言葉が全く無意味だとすると「私はパンに小豆餡を詰めた食べ物を持っているが、これは決して「あんパン」ではない」といった演繹はどのように説明できるのかな。

これに関しては日を跨いでもうちょっと考えてみます。


今日はなんか思ったよりも長くなっちゃった。あんまり読んでる人もいないから途中で飽きられないようにしたいんだけど、正直読んでて楽しめるような構成ができてるのか自信ないな…。

あと日記を書いてる途中にちゃんとしたところに提出する書類に名前を書いたりといったタスクもあったので、今日はかなり精神的に疲れてしまった。

でもなんだかんだで今日も日記をつけられているので、今後もやっていけたら嬉しいな。

では。

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