見出し画像

愛をとりもどせ!! 2024/04/05の日記

山括弧塾だったね。もう、何も覚えていないが…。

ヘーゲルが言ってること、最近どんどんわかんなくなっている気がする。なんか哲学から聖書の文芸批評みたいな話になってきてるし。

でも今日のはかろうじて理解できた。つまり友愛の儀式だったはずの聖体拝領はキリスト教の儀式になった時点で最初にイエスと弟子たちがやったようにはもう決してできないってコト。

聖杯とパンはキリストが弟子たちに分け与えた瞬間には感性的でありかつ悟性的な意味も持っていたけど、今ではそれがどんなに象徴的であっても単なる悟性的な実体、つまりモノになってしまう訳だね(三島由紀夫)。だからそういう形式だけのやり取りじゃダメって言いたいんだよね。わかるだろ?

先週までも同じような話はしたけど、このあたりに来るともう完全に話は疎外論だ。宗教という外的なものに委ねられたキリスト教の愛をとりもどそうみたいな。

だから、愛をとりもどせ!!ってワケか。ハハ、いいね。神への愛を守るためにお前は旅立ち、すべてを見失った…。


他に何かあったっけ。TLでも遡るか。

オタクに苦言を呈してるツイートをしてた。でも苦言を呈したくなるようなオタク・アーギュメントなんて毎日起きてるしな…一つ一つ記憶してたら狂っちまうよ…。

てかオタクも自分たちが言ったくだらない話とか全部覚えてないんだろうな。あるいは、インプレッション稼ぎのためにわざわざダブルスタンダードを踏みまくって自分のオピニオンを全方位に再生産しているか。

後者は正直羨ましいけどね。私にはそこまでの胆力はないから。よく心理学的に(あるいはそこに道徳を交える形で)そういうネット道化・嫌われ者的なキャラを演じる人は必ずおかしくなるという話があるが、まあそれは当然そうだろう。

当然ながら、人間は自分を精巧な物語になんてできないからね。自分は外的にそういう道化を演じる自分の人格を見つめられていて、操作できているという意識をもっていても、多分その時点で既にどこか飲み込まれているもんなんだろう。そして、完全に融合したとき、初めてその性分を内面化した一人の人間になり、今までのパフォーマンスとの齟齬が生じる。そこから崩壊までは早い。

だから、もし私がやるとしたら(というか、もうやられているだろうが)そういうインプレ・アクセス稼ぎの狂人的振る舞いは、何人かの組織を立ててやっていくだろうな。いわゆるネット論客型の狂人は難しいだろうけど、もふもふ動画系、つまり無断転載とかおもしろアカウント購入でやっていくならそっちのが有利だ。まあ…当然どっちもしませんが。

とはいえ、そうやって自分が日常で抱えている"ホンネ"をインターネットで吐き出したい人は、自分の苦しみを成り立たせている当のものに対して過剰な因果関係を求めるのをやめた方がいいぜ。結局現実なんて偶然なもんだから。まあ人生全体よりももっとミクロな生活に関してなら、国家転覆とかしてみたらもうちょっとは変わるかもしれないけどね。

どうですか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?