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ささ身に代えて 2024/04/10の日記

Twitterを見たり友人たちと話す度に、おそらく知らなきゃいけないんだろうけど名前しか知らないようなことが多すぎてうんざりする。焦燥感もそうだけど、何よりも知らないことそれ自体が端的に不便だ。何だって調べるのはメンドイし、理解するためにあれこれ考えるのは億劫なので。

ちなみに、今一番知りたいのはJ・L・オースティンとか日常言語学派周りについてだけど、どれもこれもややこしそうで嫌なんだよな。誰かわかりやすく要約してくれませんか?ダメ?そう…。

ショート動画で出てきたささ身の料理作ったけど、別にそこまで美味しくなくてショックだった。私が失敗してるってことなのかなあ。

ショート動画に出てくる料理って作らせる気があるのとないのがあるが、その中間の見栄えだけ良さそうなやつが一番ムカつくぜ。でっかい肉にチーズをダバー!!みたいな規模的に無理そうな料理がそのまま大味なのは納得できるけど、普通の家庭でも作れるものは美味しくあってほしい。そうでないと、どうして生きているのかわからない…。


Gガンダムの新作が出るらしい。そんな文章を書きながら、はや投げ出したいような気分になってくるのを、どうしようもない。Gガンダムの新作を作る?まだ何か作るべきことがあるようなふりをして?

…というほどではないけど、正直あまり期待はしていないな。というか、私はもう今後のロボットアニメってTwitterのオタクノリを内面化したようなのしか出ないんじゃないかと思っている。なぜなら、それが今のところ利益を回収する側にとって最も効率がいいことだとわかってしまったから。バーンブレイバーンとか、劇場版SEEDもそう。ミームになりそうなものをどんどん入れておけば、オタクが勝手に「これぐらいのを期待してたら、こんなにボリュームがあった!」と各々の比喩でエッセイにしてくれる。

まあそれは単に私の好みというだけなんだけどね。もちろん、このこと以上に悪いことはもちろんあって、それは昨今のオルタナ右翼にも通じるような過剰なナラティブへの従属だと断ずることができる。実際メイン制作陣にも暇空茜をフォローしている人がいたりして、そこらへんは共通した精神性を持っていることは明らかだ。

物語はこわい。物語っていうか、自分の人生が何かしらの「実現」を果たす動きの中で歯車になることで肯定されるという幻想は、否定するにしても肯定するにしても凡庸な話ではありつつ、やはり恐ろしい。オタクアニメがオタクの中でミーム的にウケたからと言って、それらの元ネタが素晴らしく持て囃されていた過去は戻ってこない。というより、理想化されているからこそ戻ってこないのだけど。

そもそも富野由悠季がオタク嫌いとしてやってきた様々な意趣返しこそが、そのようなナラティブによって自己同一性を担保すること、オタク・コンテンツを持ち上げる集団の中で無用に他者を憎んだり盲信したりすることにたいする警鐘ではなかったか?オタクがそれを「説教臭くて草」と冷笑してきたがゆえに発生しているのが、今日の社会を生きづらくしている分断ではないのか?

しかしもう無理だね。みなさんは今後も排外主義と異性嫌悪を拗らせて、どんどん死に向かっていくんでしょう。当然ながら私は別に人類が滅びてもどうでもいい立場だけど、それはちょっとつまんなすぎるので止めてほしい。恐竜の隕石超えを狙いたいしな。憎み合って滅ぶなんて人類史あるあるすぎるよ。

なんかさっき『構造と力』読んだせいで、浅田彰の文体をやたら引用してるけど、たぶん伝わらないだろう。というか、そんな語録会話みたいなことをしている時点で私もオタクでしかない。結局オタクを憎むのも、オタクだったというわけだ。キモい者たちが夕暮れ、さらにキモい者を叩く…。

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