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三国志後伝の挿絵と人物紹介6

三国志後伝にかかる、挿絵一枚につき、該当する人物の人物紹介にいきます。これは20枚ある口絵の6枚目です。
【注意事項】
 1回目を参照

口絵6

司馬穎(しばえい)

年齢:2歳
血縁:司馬炎の子
所属勢力:晋
智:6
武:3

晋の八王の一人です。成都王に封じられ、鄴を守っていました。洛陽に来ていた劉聡と親交を結んでいます。趙王(司馬倫)を討伐する諸王の決起に加わり、石勒の活躍により勝利しています。その後、政治の実権を握った斉王(司馬冏)と対立し、劉聡を劉淵の元に返し、自身は鄴(ぎょう)に帰りました。北漢の度重なる侵攻を止めるため、晋全土の軍を集め、征西大元帥に就任し、劉聡と晋漢大会戦を行いました。最終的には北漢と和平を結びます。八王の乱に加わり権力を争いましたが、王浚に敗北して、捕らえられ、殺されました。

羅尚(らしょう)字:敬之(けいし)

年齢:35歳ぐらい
血縁:羅憲の兄の子
所属勢力:晋
智:5
武:6

呉平定に振武将軍として従軍しました。冠軍将軍として、広州討伐軍を率いますが、郴嶺(ひんれい)にて周処に敗北します。その後、梁州刺史に就任し、趙廞が李特に殺された後に、益州刺史に任じられます。反乱を起こした李特たちと戦いましたが、欲深く、決断力が無いために、民心を得られず、苦戦が続きます。李特を捕らえて処刑しましたが、配下の徐輦の離反もあり、李雄によって敗北しました。成都を奪われた後も、敗北を繰り返したため、自害しました。


張華(ちょうか)字:茂先(ぼせん)

年齢:49歳
血縁:
所属勢力:晋
智:9
武:2

聡明で博識であり、「王佐の才」と称されました。晋の尚書左丞(しょうしょさじょう)・侍中の時、武帝(司馬炎)に呉の討伐を進言して成功に導きますが、讒言を受けて幽州に左遷されます。恵帝(司馬衷)には司空として用いられました。趙王(司馬倫)の敗北を聞き、孫秀を処刑することを主張します。賈皇后(賈南風)にも小傅(しょうふ)として用いられ、多くの人材を推挙して、晋王朝を支え続けました。賈皇后の打倒や辞職を勧められますが、いずれも拒否しています。趙王の賈皇后討伐の際に、孫秀の進言により、一族皆殺しとなりました。

傅仁(ふじん)

年齢:45歳ぐらい
血縁:
所属勢力:晋
智:7
武:3

王濬配下として呉平定に従軍した人物です。呉平定後は、梁王(司馬肜・しばゆう)に仕えて、長史に任じられました。梁王(司馬肜)の劉淵討伐の際には、その参謀となっています。劉淵に敗れていた孫秀が、敗戦の責任に問われて晋王朝の命令によって処刑されそうになっていましたが、孫秀と親交のあった傅仁が梁王にとりなして、処刑を取りやめさせました。劉淵との戦いでは、長蛇陣(ちょうだじん)を布き、劉淵配下の斉万年と戦いますが、敗戦に終わります。援軍として派遣されてきた周処が劉淵と戦い、危機に陥った時、梁王に周処を救出するように進言しますが、聴かれず、周処は戦死してしまいます。晋軍が劉淵との戦いに敗北を重ねているのを見て、劉淵との講和を進言して自ら使者となり、講和に成功します。その功績により晋王朝に冠軍將軍に任じられました。その後の事績は不明です。

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