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ふっと手を差し出すような

20代でそこそこ遊んだ自分は、30歳を前にして「ちゃんと」付き合いたいと思い出す。「ちゃんと」ってなんだ。当時、周りには結婚して子供が生まれる友人が増えてきた。自分にはそれと同じことはできないけれど、似たようなことはできる。家族みたいなものが欲しかったんだと思う。

その「ちゃんと」を追いかけて恋愛をする。当時はmixiというSNSが全盛期で、日記を見に行ったり、足跡を残したりしていた。そこからひょんな事で一人の人と付き合うことになる。きっかけが出会い系でもないし、ハッテン場でもない。「ちゃんと」している。
程なくして一緒に住み始める。そこはあまり「ちゃんと」してなかったかな。もう少し時間をかけてもよかったと思う。でも、一緒に暮らすというパッケージがもっとわかりやすい「ちゃんと」だったのでそれを選んだ。子供ができない自分たちなので犬を飼いはじめる。これも「ちゃんと」してる。蜜月期が過ぎて1年が経った頃、少し違和感は感じていたけれど「ちゃんと」した恋愛はすぐ終わらない。3年は付き合おうと、なぜか決めていた。

「ちゃんと」した恋愛をしているだけで、実際ちゃんとしていたかと言えば、そうではない。「ちゃんと」するためにはお金がかかるし、ストレスも溜まる。いや、その「ちゃんと」が自分に見合ったものならば問題はない。やっぱり自分は背伸びをする人で、ふりをする人だった。

そして、「ちゃんと」した恋愛には相手がいるのに、自分はそこを軽んじていたのかもしれない。1人で「ちゃんと」しようとしていた。自分が「ちゃんと」すれば向こうもしてくれるんだと思っていた。

「ゲイだということ=まともな人生は送れない」と思い込んでいたこと、また両親があまり仲良くは見えなかったことや父方の親戚の面倒くさいしがらみから、自分が勝手に想像していた理想の家庭を「ちゃんと」したものとして追いかけてしまった。それが「ちゃんと」を求めるのをブーストさせた。

今もその人と付き合っている。そろそろ15年になるところ。では、その「ちゃんと」は間違っていたのか。多分だけど、その事自体は間違っていたけど、今は間違っていなかったと思う。
結局ハリボテの「ちゃんと」は無理が来る。そこに気がつくまでには時間がかかったし、何回もぶつかった。軌道修正には時間がかかると思う。

これがちゃんとした恋愛なんだと思う。

個と個が付き合う、一緒にいるというのはお互いを尊重し合うこと。こんなわかりきっていて、何回も語られているようなことだけど。自分はできていなかった。本当にそれに尽きる。自分と相手は違う人間で、自分ではない。わかってもらいたいことは、わかってもらえるように説明を心がけるけれど、必ずわかってもらえるわけではない。
期待しない。そう言うとなんだか冷たいような気もするけれど、期待は押し付けにもなるし、逆に恐れにもなる。相手のことを常に気にして生きるよりは随分と楽なことだと思う。共依存的にならないように。

時にはぶつかることもある。それが正常。ぶつからないように自分を削って相手に合わせるのが悪いわけではないけれど、そればっかりでは破綻する。ぶつかり方なんだと思う。お互いが痛くないような摩擦で、お互いがダメージにならない程度のすぐ修復させてしっくりくる形におさまるような。それを自然にできる、そういうのを目指していきたい。

一緒に歩いていて、つまづきそうな石があったら声をかける。それに気づかずにつまづいてしまったら、その時すっと手を差し出せるように。

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