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推しのいる人生って幸せ?

推し活が当たり前の言葉になってどのくらい経つのだろうか。

元々は好きなアイドルを指して、◯◯ヲタとか言ってたような、それも一般的な言葉じゃないのかな。

新しい価値観、という物なんだろう、自分みたいな古い価値観で育ったおじさんにはちょっと理解が追いつかない。

推しってアイドルに使う言葉だったはず。AKBとか乃木坂とかグループアイドルが全盛を迎えた頃に聞き始めた記憶が。
特に乃木坂辺りから界隈じゃない層にも届く言葉になってきた感じがする。

ここでちょっと気になってwikiで検索

1980年代アイドルブームには推しメンという言葉存在してたみたい。
そして、2000年代モー娘。AKB総選挙で一般化という流れ。
2011年の流行語にノミネートされたりもしていたらしい。

ただ、アイドル用語としての「推し」から今のような形になったのは、マスコミが用途を広げたから。

こんな感じ、要約しただけ。

いわゆる流行りのフォーマットに則った感じなんだな、と。昭和新山みたいに突然出たと思っていたので意外。
でも、80年代アイドルブームということは、秋元文学かもしれない。

それならさすが秋元康って思えるけど。
彼が考えたというよりも見つけた言葉、そんなのたくさんあるだろうね。
キャッチーで使いやすい、覚えやすい。

推し、確かに便利な言葉だけどね。

ということで、冒頭の私の考えは見事に否定された訳です、しかし今回のテーマを捻じ曲げる程の影響はない。

続けます。


あなたは推しがいますか?
推し活してますか?
推し変したことありますか?

このように日常会話で使われるようになった推し、ですが私と同年代だとどれくらい推しがいるんでしょうか?

推しがいるってマジョリティ?マイノリティ?

推してる、の定義が先ず難しいが、ライト層を除かないと話が面白くならない気がしている。

そもそも推しがいるって公言していいくらいのレベルってのは、そんなに軽い状態じゃないと思われる。

その人のことを考える時間が起きている時間の40%以上、その人が幸せになるならチェキの海で溺れても本望、とか総額いくら使ったか考えると我に帰って怖くなるけど、どうせ使うのわかってる、とか。

症状としては重め。
その人のおかげで人生楽しく過ごせる、いなかったら自殺してたかも、とか引きこもり止められた、とか。
大げさなイメージとしては。

間接的なんだけど直接に近いくらい影響与えてくれた存在って感じ。
親兄弟、親友よりもある意味大切な。


私の率直な感想としては宗教が最も近いし説明がしやすいんだけど、そういう人に「宗教みたいなもんでしょ?」とか言ったら怒られそう。


自分に推しがいない、人生においていたことがないからイメージでしか語れないのが残念でならない。

じゃあなぜ推しについて書いてるのか、ここからが本題。

今までの人生において「推し」ができなかったのは何でだろう?
ということ。

推しと自分の関係性って希薄じゃないこともあるが、大体が希薄だと思う。
画面越し、ステージを隔ててとか。

肉体的接触がある場合、「推し」のままでいられるのだろうか?

諸々の疑問はつきないが、なぜ自分に「推し」がいなかったのかを考えてみたい。

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