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(2万字)カニエ・ウエストの"808s & Heartbreak"はヒップホップを変えたか?

はじめに

卒業プロジェクトとして執筆した論文ですが、ネットに放流した方が有益だろうと思いnoteでブログ記事風に編集してまとめておきました。

カニエ・ウェストが10年前に発表したアルバム、"808s & Heartbreak"が今のアメリカのヒップホップ、ひいてはポピュラー音楽を支えているという風説が本当かどうかを検証してみる内容になっています。

タイトルの元ネタはこちらの本です。

拙いところもありますが、そのうち修正していくかもしれません。

本論は3章からです。おヒマな時にお読みください。

1章:商業ヒップホップ音楽の発展

 “808s”の特殊性を知るには、まずはその時代のヒップホップがどのような音楽であったかを確認する必要があるだろう。“808s”のリリースは2008年の11月24日である。

毎年ヒットチャートを作成しているアメリカのビルボードが”808s”の発売以前である2007年に記録された“Top Rap Albums”を参考にすると、例えばラップアルバムチャートで3週の間トップを記録していたYoung Jeezyの“The Inspiration”は、当時のラップ・ヒップホップ音楽を象徴するような作品として参考にすることができる。その中の一曲、“I Luv It”には次のような歌詞が含まれている。

100ドル札はテーブルの上、20ドル札は地面の上で
シゴトが終わってまたシゴト
これがたまらなく好きなんだ
雑踏のギャングスタは俺のもの、女は俺のショーを観に来るし
デカい車で乗り付けて、流行の最先端をおさえてる
これがたまらなく好きなんだ

We count hundreds on the table, twentys on the floor
Fresh outta work and on the way with some more
And I love it (yeah!), and I love it
I got gangstas in the crowd, bad bitches at my show
Parked outside, and sitting on vogues
And I love it (yeah!), and love it

 おおっぴらに自身の富や名声を誇示し、“Fresh outta work and on the way with some more”のようにドラッグの売買のような犯罪に手を染めていることをほのめかす描写、あるいは“bad bitches”のように女性を蔑視的な表現で描き、自身の所有物のように扱うことは、2000年代のヒップホップ音楽を代表するギャングスタ・ラップの特徴である。

 ヒップホップ音楽において最も典型的な形式とされるのがギャングスタラップと呼ばれる音楽だ。ヒップホップ誕生の地であるニューヨークやフィラデルフィアといった東海岸地域で80年代から見られたこの様式は、90年代に入り西海岸はロサンゼルスで最も商業的価値の高い音楽として花開くこととなる 。

これまで興行的に成功していたラップ音楽は享楽的なものが多く、80年代後期にはそれに加え政治性や社会問題を歌詞に盛り込んだ楽曲が大きな人気を集めていた。ニューヨークを拠点に活動するDe La Soulは1989年にリリースしたシングル“Me Myself and I”はFunkadelicの代表曲“(Not Just)Knee Deep”をサンプリングし、コミカルな歌詞を合わせることで大きな反響を呼び、ビルボードチャートのラップ部門において8週に渡り1位を獲得する 。

社会派ラップとして反響を呼んだものとしてはPublic Enemyの“Fight the Power”が代表的である。映像監督Spike Leeが1989年に製作した“Do The Right Thing”のテーマ曲として生み出されたこの楽曲は、曲名にも表れている反体制的な歌詞が特徴的で、89年のラップチャートにおいて6週に渡って1位を獲得した。

 また、KRS-ONE率いるヒップホップグループStop The Violence Movementはそのグループ名もさることながら、88年にリリースしたシングル“Self Destruction”はMalcom Xのスピーチの冒頭をイントロとしてサンプリングし、黒人コミュニティ内における暴力反対を訴え、コミュニティの自浄を説く内容となっており、89年には10週に渡ってラップチャート1位を維持し続けた。

これまで音楽的に商業的に価値が高いとされてきたのは、人を感動させたり良い気分にさせるもので 、ラップ音楽として初めて商業的に成功したとされるThe Sugarhill Gangの“Rapper’s Delight”もまた、当時人気のディスコチューンであったChicの“Good TImes”をそのままサンプリングした楽曲だった。

 一方ギャングスタラップはその正反対を行く、ひどく低俗で暴力的な音楽性が特徴である。露骨に下品で先導的な表現が目立つためにアンダーグラウンドなラップとして位置付けられ、当初はメディアに広く取り上げられることもなかった 。そのため商業的には無価値な音楽であると考えられていたのである。しかしギャングスタラップは荒廃した黒人コミュニティの生の声であるという風評を逆手に取り、よりその暴力性を先鋭化させることで、彼らに対する白人の恐怖心を巧みに利用した楽曲製作・マーケティングを展開していく。

白人をターゲットにしたマーケティングがヒップホップ音楽の興行に最適であると音楽業界に確信させたのは、ビルボードが91年にサウンドスキャンという、科学的に信ぴょう性の高い音楽チャート集計方法の導入がきっかけだとされている 。サウンドスキャン以前のビルボードにおけるチャート集計方法は、ひどくいい加減なものであった。レコード店の店員の好みや趣向に頼った主観的な報告書を元に作成していたため、正確な売り上げは不明で、特定のミュージシャンに有利な水増し報告も容易であったのだ 。

一方のサウンドスキャンはバーコードを用いた売り上げのPOS化による、データ至上主義の集計方法であった。POS化した売り上げデータを集積・分析することによって、アルバムやアーティストの売り上げの動向、配給した会社の業績、都市別・店舗ごとのデータなども算出できるようになったのである 。

 サウンドスキャン導入後のチャートには、業界の予想とは大きく反する変動が見られた。ロックやポップスとともに、カントリー、そしてラップもチャートにランクインすることとなったのである。カントリーとラップは、このとき初めて商業的な価値のある音楽であるという評価を得るに至った 。90年代のアメリカにおいて大多数を形成していた人種は白人である 。

ポピュラー音楽市場を形成する消費者として白人がマジョリティであった以上、閉鎖的な文化であると信じられてきたラップ音楽が、ヒットチャート上位にランクインしたことの衝撃は想像に難くない。ギャングスタラップの勃興と、サウンドスキャンによるラップ音楽のランクインが同時期に重なった時に、ヒップホップ音楽=ギャングスタラップという図式が完成したとも考えられる。「ギャングスタラップは売れる音楽」という定説は、ビルボードチャートによってもたらされたのである。

ギャングスタラップの金字塔と評されるN.W.Aは、1991年にセカンドアルバムとなる“Efil4zaggin”をリリースした。このアルバムはビルボードにおけるこの年のHot 200で1位を獲得しているが 、その内容はポップスとしてはあまりに過激で、人目に触れることも憚るような作品となっている。

 ギャングスタラップの商業的価値の高まりは、アーティストと音楽産業の相互利益に矛盾を生まないという意味でも画期的だった。ギャングスタラップの元祖を自称するラッパーのIce-Tはインタビューの際、「ゲットー(貧民街)の奴らは、あそこから抜け出そうと必死なんだ。俺がラッパーになる前、盗みをやっていたのはなぜか?もちろん金のためだ。貧乏人のままでいたい奴なんているわけない」と語ったという 。

金を儲けたい貧困層の黒人をそのまま市場に送り出すだけで利益を生んでくれるとなれば、企業も彼らのブランディングの際にポップスターのような清廉潔白なイメージを作る必要もない。それどころか、より暴力的で過激なイメージを強調してやることで、ギャングスタラップは「金のなる木」としての地位を確立させていく。それは消費者にとってはスリリングな非日常の物語であったが、一攫千金を狙う黒人の若者にとっては、誰よりも危険な行為に身を投じるタフなラッパーこそが勝者となれる、極めて競技性の高い世界でもあったのである。

西海岸におけるギャングスタラップの変容

 売れる音楽としてのギャングスタラップは、西海岸で発達することにより風土に合わせたサウンドの変化を見せるようになる。当時N.W.AのメンバーであったDr. Dreは、カーステレオに最適化したサウンドとして、BPMを当時主流だった110前後から90前後にまで落とした楽曲を次々と発表する 。

前述で紹介したDe La Soulの“Me Myself and I”はBPMが114である一方、N.W.Aの代表作である“Fuck Tha Police”(1988)の99というBPMを比較すると対照的だ。ロサンゼルスでは自動車が生活の基盤となっていたがゆえのアプローチと言え、ヒップホップ誕生の地であるニューヨークでは、地下鉄などの公共交通機関が発達していたこともあり、このような試みは主流ではなかったのである。

また、そもそもアメリカでは車社会が根強いことも幸いし、Dr. Dreの作るドライバー向けの楽曲が広く受け入れられ、結果的に東海岸のヒップホップよりも郊外の白人には西海岸のサウンドが支持を集めることとなった。同時にヒップホップ音楽のイメージもまた、「ギャングスタ的でテンポが遅い」ものとして大衆の中で固定化されていったのである。

 BPM以外の特徴として、サウンドに空間性を生かした取り組みが見られる点も挙げられる。サンプリングは生演奏で行いながらも、アドリブ性を排除して無機質性を維持している点である。

サンプリング技法を使う上で当時主流だったのは、録音した音を打楽器的に再生できる、サンプラーによる楽曲制作であった。この手法は現代でも好んで使われるポピュラーなものだが、Dr. Dreは生演奏によって何度も同じフレーズをループさせる手法を採用した。オリジナルが存在する楽曲のフレーズの一部を生演奏することでサンプリングするやり方そのものはこれまでにも存在しており、最初のラップ・シングルと呼ばれる“Rappers Delight”もまた当時流行していたChicの“Good TImes”のワンフレーズを生演奏により再現したものである 。

しかしながらDreが生演奏に求めていたのは、サンプリングが生む無機質さをある程度排除し、低速のBPMに合わせることで、ロサンゼルスの街を車で走りながらカーステレオで聴取するのに最適な音楽効果だった 。生演奏とはいえファンクやジャズに見られたアドリブ要素は排除され、ひたすらに同じフレーズを演奏させることでラップのための空間性を設けているのである。

Dr. Dreが1992年に発表した“Let Me Ride”はその典型的な例と言える。この曲もまたJames Brownの“Funky Drummer”やRuff Rhymeの“King Tee”など多くの楽曲からサンプリングを行なっているが、生演奏によってファンク特有の肉体性とサンプリングによる無機質さを共存させ、ロサンゼルスの人口密度の低さを表現しているとも捉えられる。“Rappers Delight”は都市化が進んだニューヨークの文化から生まれたと考えると、この点は対照的である。

 BPMを落とした楽曲制作はアーティスト側にも広く受け入れられ、東海岸発の90年代にヒットしたラップ音楽にもBPMが90前後の作品が多い。1994年におけるラップソング部門のビルボードチャートには西海岸発のラップも目立つが、ニューヨークのラッパー、Craig Mackによる“Flava In Ya Ear”は計14週にわたってチャート一位を独占した 。この楽曲もまたBPM90の作品で、翌95年には同じくニューヨーク出身のNotorius B.I.Gもまた“Big Poppa”や“One more Chance”といった複数のBPM90前後の楽曲でチャート一位を記録した。西海岸で発達したギャングスタラップの特徴として、表現に重層性・多様性が生まれた点にも触れておく必要がある。

ラップの中で享楽的な側面や、政治的・社会的な怒りの側面だけでなく、哀愁や平和といった落ち着いた表現がなされるようになったのだ。『文化系のためのヒップホップ入門』の中では、ヒップホップが西海岸に渡ったことでラップで語られるテーマが多くなったこと、そしてBPMが低速になったことでメロウな80年代のR&Bが好んでサンプリングされるようになったとが語られている。

またヒップホップアーティストにもMtumeやIsley BrothersのようなR&Bグループを好む嗜好が浸透していたことから、当時のR&Bとラップのクロスオーバーは容易に進んだとされている 。硬派で粗暴な印象が強かったヒップホップ音楽、もといギャングスタラップの中でこのような表現が受け入れられるようになったことで、長谷川町蔵は「『喜怒』しかなかったヒップホップに、『哀楽』が加わった」とも述べている 。

""Ice Cubeが1992年にリリースした“It Was a Good Day”はIsley Brothersの“Footsteps in The Dark”(1977)をサンプリングしたギャングスタラップだが、彼もまたN.W.A元メンバーとはいえ当時とは印象が大きく異なる柔らかいサウンドに、「今日はいい日だった。なぜならダチが誰も撃たれなかったから」といった趣旨のラップを合わせ、叙情的な表現を試みている。

ひたすらに「タフな自分」をアピールするだけでなく、時に哀愁や平穏を感じさせる表現が可能になったことは、ラッパーがより人間的でリスナーに近い存在であり、歌詞に含まれる暴力的な描写が本当に家の隣で起こっているような「リアルさ」を下支えする効果を生んでいる。

ラッパーは無敵のスーパーヒーローではないからこそ大衆の関心を引き、時に見せる人間的な側面がより多くの人々の共感を呼ぶ。そしてここで表出した等身大の愛すべき姿こそ、Kanye Westが“808s & Heartbreak”で提示した、新しいヒップホップのルーツの一つとして振り返ることができるのだ。

2章:Kanye Westのキャリアについて

 2019年で42歳を迎えるKanye Westは、アーティストとしてのキャリアは20年以上にわたるベテランである。今となってはラッパーとしての活躍が目立つKanyeだが、彼の音楽キャリアは、トラックメイカーからスタートする。数年の下積み時代を経て、2001年にリリースされたJay-Zのアルバム“The Blueprint”において楽曲を提供したことからその名を徐々に轟かせていく。

ただ彼が実際にソロデビューを始めるのはJay-Zのヒットから3年が経過してからとなるのだが、その理由としては当時から奇行が目立ち、周囲にも敬遠されていたからという話がある 。今も尊大な言動が目立つKanyeだが、実はその初期から彼の基本的なスタンスは変わっていない。

これはアメリカ音楽業界における徒弟制に近いキャリア序列が当時根深かったことや、アーティストとはいえあまりに奇行が目立つと出世が遅れてしまうという、現地のエンターテイメントが合理的な世界観に基づいて構築されていることを物語る逸話でもある。

 2004年、Kanyeは自身のソロデビューを飾る“The Collage Dropout”をリリースする。芸術大学を中退して音楽家になったことを自虐してのタイトルだが、Chaka Khanの“Through The Fire”をサンプリングして製作し、2002年に口を大きく縫うほどの大きな交通事故に巻き込まれたことをテーマにした“Through The Wire”が大ヒットを記録する 。

往年のR&Bやソウル楽曲からサンプリングし、ボーカルの回転数を上げて甲高い声をループさせる手法は「チップマンク・ソウル(Chipmunk Soul)」と呼ばれ、2000年代前半に多くのアーティストが採用したことでちょっとした流行となった。Kanyeが最初にこの手法を発明したかどうかは定かではないものの、彼はこのスタイルの楽曲制作を好み、Talib Kweliの“Get By”(2003)や自身の三枚目のアルバムに収録されている“Good Life”(2007)などのヒット曲を生み出した。Kanyeによるボーカルを加工するアプローチは今日まで続いており、“The Collage Dropout”以降の作品でも形を変えながら随所に見ることができる。

 2枚目のアルバムとなる“Late Registration”(2005)では、ヒップホップ音楽とかけ離れた作曲家であるJohn Brionをプロデューサーに迎えて製作された 。映画音楽の作曲が主な活動となっているJohn Brionを迎えたのは、Kanye本人が楽曲製作において、ヒップホップとは異なるアプローチでラップをするための空間性を獲得しようとした取り組みであるとも考えられ、ここからも常に先進的であろうとするKanyeの前のめりな姿勢が伺える。

また、今でこそ自己中心的な言動が目立つKanyeだが、初期の作品である1枚目および2枚目のアルバムでは社会的な作品、いわゆるコンシャス・ラップと評される楽曲も多い。“Late Resistration”に収録されている“Heard ‘em Say”ではMaroon 5のボーカルAdam Lavineをコーラスに迎え、”Nothing’s ever promised tomorrow today”「明日のことなんて何も分からない」というフレーズを何度も差し込みながら最低賃金の暮らしに苦しむ黒人や警官の暴力を描くなど、地元シカゴの窮状を訴える歌詞になっている。

このような作風は、いわゆる文化系ヒップホップファンにのみ高い評価を博していたことも注目に値する 。当時商業的に成功するヒップホップ音楽といえば「金・女・暴力」がテーマのわかりやすいギャングスタラップであったため、この時点ではまだKanyeは大衆から絶大な支持を集めていたわけではない。マッチョな世界観を提示できるアーティストでなければ、ヒップホップ音楽での成功はあり得なかったのだ。

 「大学中退」、「中途入学」と来てついに「卒業」を果たす“Graduation”(2007)では、“Late Registration”で如実に表れていた社会を俯瞰するようなコンシャスなものではなく、ギャングスタ的な「俺」という主語の強さが目立つ作品としてリリースされる。一作目などに顕著だったチップマンク・ソウルの手法もこのアルバムでは復活し、Daft PunkやMichael Jacksonなどの楽曲を大胆にサンプリングしつつ、学生としての生真面目さや小賢しさと決別するかのような派手さが特徴的な作品となっている。

そして当時のヒップホップ音楽を代表するラッパーであった50 Centのニューアルバム“Curtis”とリリース日が重なり、「アルバムセールスで下回ったほうが引退する」という約束が交わされたことが大きな話題となった。

この発言が知れ渡った当初は、メインストリームの絶大な支持を受けている50 Centがセールスでは勝利すると考えられていたものの、結果はその予想を覆すKanyeの大勝に終わる 。コンシャスラッパーと評されていたKanyeだが、この結果はKanyeが大衆の絶大な人気を獲得し、彼自身がヒップホップ音楽を代表する人物へとシフトしたことを表す転換点であったと言えるだろう。

 華々しい「卒業」を迎え、Kanyeの“The Collage Dropout”から続くアルバムシリーズは、第4作目となる“Good Ass Job”で有終の美を飾るはずだった 。ところが前作から1年ほどの期間を経てリリースされた“808s & Heartbreak”(2008)は、“Graduation”からは想像もできないほど暗く、悲しみに満ちた作品として世に放たれたのである。

 “Graduation”の売り上げは、初週の米国内だけで96万近い数字を記録する大ヒットとなり 、Kanyeの勢いは絶頂に登ろうとしていたまさにその時、彼の母であるDonda Westが同年11月に心疾患によって急逝してしまう 。享年58歳と早すぎる死であったが、死の直前に受けていた美容整形手術の不手際が原因であると考えられたことから、Kanyeは母の死が「避けられるものであった」と大きく心を傷つける事となる 。

Kanyeの実母であり、マネージャーでもあったDondaは息子と良好な親子関係を最期まで保ち続けていた 。“Late Registration”にも“Hey Mama”という母への感謝の気持ちを伝える楽曲が収録されているだけでなく、そもそもDondaはシカゴの州立大学で教鞭を執っていた人物である。

Kanyeが自虐的に大学中退や中途入学といった言葉をアルバム名に採用したのは、母がアカデミーの人間であった事を意識してのものであった事も十分に考えられるだろう。彼の3作に及ぶソロアルバムはいわば、大学を卒業できなかったKanyeによるせめてもの母への償いなのだ。

 そしてその数ヶ月後、Kanyeはさらなる喪失を経験する事となる。2006年より結婚生活を営んできたAlexis Phiferと離婚し、同時期に二人の愛する女性を失ってしまうのであった 。2002年からの付き合いであったというKanyeとAlexisだが、日々のKanyeの激務にAlexisが嫌気をさしての別れとなってしまう。

KanyeはAlexisに愛想を尽かしたわけではなく、自分の仕事に没頭していただけであった以上、離婚騒動に発展したのはまさに青天の霹靂であったに違いない。次章では“808s”のなかでどのような技巧をこらしながら、喪失を表現したかを見ていく。

3章 :“808s & Heartbreak”が目指した音楽表現

 “808s & Heartbreak”の特徴として、一つにサンプリングをできる限り行わない試みが挙げられる。音源から自由にフレーズを抜き出し、反復して再生することのできるデジタル・サンプラーを用いた楽曲製作は、90年代以降ヒップホップ音楽において爆発的に普及していくことになった 。これまでのKanye Westによる楽曲製作においてもサンプリングは欠かせないものとなっていた。

“808s”においてサンプリングが行われたのは、確認できる限りでは12曲中の4曲のみである。自身もインタビューの中で、“808s”を自立的なアルバムとして完成させたかったと述べ、大ヒットを記録した”Love Lockdown”でもサンプリングを用いていないと語っていることから、今作においてサンプリングを意図的にアルバムから排除している姿勢がうかがえる 。

それでは逆に、“808s”の中でサンプリングを用いて制作された楽曲、あるいはサンプリングとして“808s”の楽曲に取り込まれた音源とはどのようなものであったのだろうか。

 まずは“808s”の中でもシングルとして好調なセールスを記録した“Heartless”であるが、これにはイギリスのプログレッシブ・ロックバンド、The Alan Parsons Projectの“Ammonia Avenue”の一部分が用いられている。また、“Robocop”の中ではPatrick Doyleの“Kissing in the Rain”が、“Bad News”の中にはNina Simoneの“See- Line Women”、そして“Coldest Winter”ではTears for Fearsの“Memories Fade”が使用されている。

特に“Coldest Winter”は“Memories Fade”から楽曲の一部分のフレーズのみならず、歌詞も大きく引用しており、サンプリングというよりもカバー曲に近い作品となっている。サンプリングをしないと言いつつも、これほど原曲の原型を留めた楽曲をアルバムに加えているのには、共通言語として聞き手に何らかの理解を求める意図があったと考えられる。

喪失という辛い現実に直面したKanyeは、今とは切り離された過去へ逃避せざるを得ず、本来の意図とは裏腹にサンプリングを行ってしまったとは考えられないだろうか。

 サンプリングに次いで特徴的であったのが、ローランドから発売されていた電子楽器のTR-808の存在だ。当時Kanyeはハワイのスタジオで収録を行っていたこともあり、“808s & Heartbreak”の“808”はハワイの市外局番であることにも由来しているのだが 、アルバムを通じてTR-808が多用されていることもその理由の一つだ。

TR-808の音色は特徴的で、80年代前半に発売されてからYMOの活躍を機に一気に全世界へと普及していった 。現代でもアメリカのヒット曲の多くにTR-808の存在が確認でき、2018年に最もストリーミング再生回数を獲得したDrakeの“God’s Plan”にもTR-808のカウベルの音色が含まれている 。

ちなみに2016年にはピコ太郎の「ペンパイナッポーアッポーペン」が世界的な反響を呼んだが、サウンド面で言うとやはりTR-808の音色が積極的に使われている。現代のヒット曲においても、TR-808の存在は大きな意味を持っているのである。
 
 “808s”の制作にあたり、TR-808をKanyeに紹介したのは“Late Registeration”の制作にも携わったJohn Brionだった 。Kanye Westは1977年生まれで、80年代の音楽は彼に大きな影響を与えていると考えられる。

Marvin Gayeの“Sexual Healing”(1982)やAfrica Bambaataaの“Planet Rock”(1985)、そしてPhil Collinsに代表されるUKロックなどにおいてTR-808は多用されたことから、Kanyeが機械的な808のサウンドにノスタルジーを覚えたとしてもおかしくはない。

 TR-808ほど直接的に提示されていないものの、ラップではなくオートチューンを用いて歌い上げることによってアルバムを完成させている点も大きな特徴とされている。オートチューンは音程補正用ソフトの一種で、歌声をコンピューターで加工し音程を整えたり、独特の機械的な歌声を生み出すのに利用される。国内ではPerfumeがオートチューンを用いていることで有名だが、Kanyeもまたこのソフトを用いて“808s”の全編にわたって制作を行っている。

オートチューンは2008年当時のチャートを風靡するほどの流行を見せていた技術の一つで、特にフロリダ出身のアーティスト、T-Painはその代表格である。ビルボードチャートのTop100に合計12回ものチャート入りを果たした彼の作品には、Kanye Westとの共作“Good Life”も含まれている 。

だが”Good Life”においてはオートチューンを取り入れつつも、威勢良くラップするKanyeの姿が見られた一方、”808s”では静かに歌い上げるのみである。オートチューンによってKanyeは機械的な声を手に入れ、極限的な悲しみや喪失感を表現したと大和田俊之が述べている通り 、ラップのような肉体的かつ主体性の強い表現方法では、喪失感を伝達するには限界があったのだ。

アフロ・フューチャリズムへの接近

 サンプリングとTR-808を多用した曲作り、そしてオートチューンを用いた素朴で機械的な歌唱を組み合わせることで、Kanyeは内向的でひたすらにネガティブな“808s & Heartbreak”というアルバムを作り上げた。

もちろんそれはKanye個人の趣味嗜好によってもたらされた作品とも言えるのだが、特異と言われるこのアルバムにも、黒人文化を客観的に説明する上で用いられるアフロ・フューチャリズムの側面がうかがえる。アフロ・フューチャリズムは1993年に初めて登場した言葉であるが 、これは黒人SF作家による宇宙・未来・テクノロジー表象を説明する文脈から誕生した 。

だがこのムーブメントそのものはアメリカの50年代から70年代の黒人アーティストの芸術活動にそのルーツを見ることができ、冷戦下における熾烈な米ソ間の宇宙開発競争と、黒人活動家による公民権運動が折り重なった歴史から誕生したとされている 。

 この時代以降、黒人音楽の中において「宇宙」をテーマにしたグループやアルバムなどは数多くリリースされることとなった。「土星から地球にやってきた」と自称するSun Raは、古代エジプトの衣装に身を包みながら“Futuristic Sounds of Sun Ra”(1961)や “Cosmos”(1976)など、宇宙や未来をテーマにしたアルバムを数多く発表し(11)、ファンク・バンドのParliamentはサイケデリックなサウンドが特徴的なシンセサイザーを用いながら、“Mothership Connection”(1975)と名付けたアルバムを発表していく。

またヒップホップにおいてもアフロ・フューチャリスティックな取り組みは早くから行われており、前述したAfrika Bambaataaの“Planet Rock”はもちろん、Public Enemyのアルバム“Fear Of Black Planet”(1990)などは代表的な作品である。

 そしてアフロ・フューチャリズムが提示する世界観とは、「未来」と「過去」の同居である。アメリカ研究者のAlondra Nelsonは、黒人思想家のW.E.B.Du Boisの「二重思想」の概念や、黒人作家であるIshmael Reedの作品を援用しつつ、アフリカ系アメリカ人は「過去」に「未来」を幻視するとしている 。

また、大和田俊之は自著の『アメリカ音楽史』の中で、過酷な現実に直面する黒人は「ここではないどこか」に理想郷を求め、その終着点としてSun Raのように古代エジプトの栄華と遠い宇宙や未来にたどり着いたと述べており、「過去」の形を変えながら何度も再提示することで、そこに刻まれた「未来」が訪れる世界観が存在するとしている 。

 ピラミッドのイラストが印象的なEarth, Wind & Fire(EWF)のアルバム”All’n All”(1977)はアフロ・フューチャリズムを代表する作品だが、ここではさらにアフロ=アジア的想像力にも到達している点に注目したい。

黒人によるアジア文化への接近は、Du Boisが日露戦争における日本の勝利から人種問題解決の糸口を見出したことや、公民権運動のリーダーの多くは毛沢東を参照したこと、急進的な黒人解放同盟であるブラック・パンサー党の創設メンバーに日系人が含まれていたことなどから研究が進められており 、ヒップホップでは地元のスタッテン島を「少林」と呼び、中国語の「武天」にそのグループ名を由来するWu-Tang Clanに見ることができる。

“All’n All”のアルバムジャケットを担当したのもまた日本人SF画家の長岡秀星であり、アジア人にここではないどこかの世界を託すことで、EWFは未来や過去、そして宇宙へと想いを馳せるのである。

 Kanyeの“808s”もまた、アフロ・フューチャリズムの延長線上に位置するアルバムということができる。TR-808によって未来的でミニマルなサウンドを構築しながら、Kanyeにとっては昔懐かしい「過去」を再提示するための楽器としても機能する。そこにオートチューンによって人間性を排除した機械的な歌声を組み合わせるアプローチは、過去の再構築による未来的な世界観そのものと言えるだろう。

Kanyeは二重の喪失という耐え難い現実に直面し、「ここではないどこか」へ導くアフロ・フューチャリズム的なアプローチにたどり着く。“808s”で行われているのはKanyeによる徹底的な「過去」の書き換えであり、そこには必然的に「未来」が同居する。そしてKanyeが“808s”で行った過去の書き換えと未来の提示こそ、来るべきヒップホップ音楽における次のトレンドを予見するものとなるのである。

4章 :“808s & Heartbreak”はヒップホップだったのか?


 “808s & Heartbreak”がリリースされた当初、音楽関係の批評誌やレビューサイトにおいては概ね前向きな評価を集めていた。ワシントンポスト紙のChris Richardsは“808s”を「情報化時代の傑作」と評し 、USAトゥデイのレビューにおいても「WestはTR-808のドラムマシーンとオートチューンによるボーカルエフェクトを巧みに活用し、念入りに構築された歌詞を通じて傷心や怒り、疑念といった感情を導いている」と語られ 、これまでの作品にはなかった”808s”の新規性やオートチューンに対する風当たりの強さを感じさせない評価を獲得している 。

だがシカゴ・トリビューン紙は“808s”に高評価を与えながらも「これまでのKanyeファンは残念に思うかもしれない」と述べていたように 、あらゆる層にKanyeの内向性が受け入れられていたわけではなく、むしろ従来のKanyeファン、ひいてはヒップホップファンにとって、”808s”は非難の対象でもあったのだ。ある者は“808s”を憎みさえしており、良くて許容してやっていたということだが 、評論家と大衆の評価にこれだけの差が生まれてしまったのにはいくつかの理由が考えられる。

 一つに、当時は一般大衆にとって機械的なものと内省的なものを組み合わせるという感覚は受け入れ難かったという点だ。「Kanyeの歌声は聞くに耐えないもので、オートチューンの力を持ってしても酔っ払いのカラオケよりマシ程度のもの」 と酷評されたように、Kanyeがオートチューンを使って歌ったことへの反発は大きかったのだが、これにはアメリカ人が考えてきた黒人らしい音楽のあり方が影響している。

アメリカにおける大多数のリスナー、つまり白人は、黒人音楽に「力強く」「粗野」で、「身体的」であり、洗練とは無縁なイメージを投影し、Otis Reddingのようにソウルフルなアーティストを称揚するのである 。このイメージは遡ればブルースやジャズにも通じ、「ぼろ着を身に纏いながらギターを弾く姿」 や、小泉八雲の言う「バンジョーのようにピアノを演奏する黒人」 にルーツを求めることもできる。ヒップホップがアメリカで流行したのもまた、単調なフレーズのループの中で好き勝手に思いの丈を叫ぶという、粗野で肉体的なイメージが先行したからこそ受け入れられたとも考えられる。

Kanyeはオーセンティックな黒人音楽を好んでサンプリングしていたことから、昔ながらの「黒人らしさ」を彼に求めていたリスナーは特に多かったと推測できる。それゆえ“808s”に表出する「洗練」され、機械化されたKanyeが歌い上げる姿は、彼のファンにとっては耐え難い背信行為だったのである。

 二つ目に、Kanyeは“808s”においてヒップホップの伝統でもあったボースティングを放棄したことも理由として挙げられる。ボースティングとは自身の肉体的な強靭さや、所有している富をアピールする行為で、悪口の言い合いであるダズンズや、婉曲表現であるシグニファイイングとともにアフリカ系アメリカ人の共同体に受け継がれてきたラップの源流として語られている 。

第1章でも取り上げたように、商業音楽としてのヒップホップの歴史はギャングスタラップの「どれだけ自分が身体的にタフであるか」を互いに技巧をこらしながら競い合い、時には本当に血を流してしまうことで形作られてきた。ところがKanyeは当時ヒップホップの頂点にいながらにして、自身の富や名声、肉体の強靭性を放棄するような世界観を“808s”で提示する。

 “808s”に収録されている“Welcome to Heartbreak”には、このようなフレーズが含まれている。

友達は息子達の写真を見せてくれたけど
俺が見せられるのは豪邸の写真だけだった
彼の娘が新しい通知表をもらってきたそうだけど
俺が持ってるのはピカピカのスポーツカーだけだった

My friend showed me pictures of his kids
And all I could show him was pictures of my cribs
He said his daughter got a brand new report card
And all I got was a brand new sports car

 「物質的な豊かさと幸せは直結しない」という資本主義な価値観の否定や、アメリカンドリームの儚さを伝えるメッセージは、いわゆるロック音楽などではよく見かけるありきたりな表現かもしれないが、「豪華な生活よりも素朴な家族愛」に思いを馳せるKanyeはヒップホップ音楽に通じるボースティングを完全に否定している。

これはギャングスタラップによって形作られた商業ヒップホップへの否定、あるいは参画するアーティスト、ひいてはギャングスタラップを消費する聴衆への挑発とも取れるだろう。女性蔑視的で同性愛嫌悪的なギャングスタラップの世界観において、悲しみや精神的な辛さを吐露する黒人はタブーである。それゆえに白人だけでなく黒人のリスナーからも“808s”は不評を買ってしまったのだ。

 それではなぜこれだけの議論を呼ぶ作品でありながら、“808s & Heartbreak”はヒップホップアルバムとして高く評価されたのだろうか。“808s”がCD売り場や音楽チャート、ストリーミングサービスにおいてヒップホップに分類されるのは、一つにKanye Westというヒップホップアーティストの作品であることが大きいかもしれないが、ここでは改めて“808s”に含まれるヒップホップ性を整理しておくことにする。

 “808s”は音楽的にヒップホップではないと揶揄されることもあるが、楽曲の構成要素一つ一つを見ていくと、大きくルールの枠から外れているわけではないことがわかる。”808s"の中ではオートチューンを用いて歌い上げる姿が代表的だが、思い出したかのようにKanyeがラップを挟む様子も“808s”からはうかがえる。収録曲の“Paranoid”ではメロディに合わせて歌うよりもリズムに合わせてラップしているパートが多く含まれ、Kanyeがヒップホップを辞めたとは言い難い。

また“808s”には数曲ながらサンプリング楽曲が収録されている点も無視できない。“Bad News”に関してはNina Simoneの楽曲からドラムパートを抜き取ったもので、いわゆる従来のソウルフルなKanyeらしさの名残とも受け取ることができるだろう。あるいは“Amazing”ではYoung Jeezyが、“See You in My Nightmare”ではLil Wayneが客演している様子は、外部から大物のラッパーを連れてくることで、ヒップホップらしさを補強しようとしたKanyeの試みとも見ることができる。TR-808やオートチューンの使用も、Afrika Bambaataaの”Planet Rock”のケースを踏まえると、“808s”に収録された楽曲は新しいどころか懐古主義的な古めかしさを覚える。

 そもそもヒップホップ音楽はテクノロジーと深く関わりのある音楽で、機械的・無機的な要素は切っても切れない側面である。第一章でも触れているが、サンプリングという手法が定着したのもサンプラーという最新機器が登場したからであり、そこで行われた原曲のカット&コピーを始め、Kanyeがトラック製作の際に好んでいたボーカルのピッチ加工に注目すれば、そこに肉体性を見いだすことは難しい。オートチューンの使用もまたその文脈の上に位置すると考えることもでき、「肉体的ではない」「ソウルフルではない」と言った批判は、ヒップホップ音楽を評する上で有効ではないと言えるだろう。

加えて、“808s”で展開される内省的な表現についても、Kanyeほど直接的でないとは言えこれまでのヒップホップ音楽を振り返るといくつも確認できる。第一章でも取り上げたが、Ice Cubeの“It Was a Good Day”に代表されるように、哀しみや平和をヒップホップの文脈で展開しつつ、甘いR&Bとのクロスオーバーを果たすことは90年代の西海岸で盛んに行われている。またニューヨークのA Tribe Called Quest(ATCQ)が1990年に発表した“Bonita Applebum”は一人の女性に当てたラブレターのような内容となっており、ギャングスタラップに見られる女性蔑視的な要素は含まれていない。

こう言った過去の事例を振り返ると、ヒップホップ音楽で感傷的な表現を試みたり、一人の女性への愛を語ることは、禁止されていたどころかむしろ受け入れられていたケースも存在する。それでもKanyeが糾弾されたのは、彼がその時代において最もポピュラーなヒップホップアーティストだったことが良くなかったのだろう。大衆が50 Centを破ったKanye Westに期待したのは、“Graduation”で見せたような威勢のいいギャングスタラッパーとしての姿だったのだ。
 
 “808s & Heartbreak”は従来のKanye作品を前提とするとなじみ難い作品であったかもしれない。しかしながら客観的に見れば“808s”はヒップホップとして聴くことの出来る要素を備えていただけでなく、今日アメリカで活躍する多くのアーティストはヒップホップの源流として“808s”を捉えているのである。

5章:“808s & Heartbreak”の余波

 “808s & Heartbreak”は当時のヒップホップファンにこそ受け入れられなかったが、このアルバムに多大な影響を受けたと公言するアーティストは多い。例えばトロント出身のDrakeは、2009年のMTVによるインタビューの中で「Kanye Westは自分の音楽に最も影響を与えた人物」と語り 、“808s”に収録されている”Say You Will”をカバーした“Say What’s Real”を自身のミックステープ”So Far Gone”(2009)に収録している。

またDrakeと同世代であるオハイオ出身のKid Cudiは、“808s”の制作に大きく関わったことでKanyeとは互いにインスピレーションを与え合ったと語っており 、翌年2009年にデビュー作の“Man On The Moon”を発表する。このアルバムにはKanyeが登場するだけでなく、”808s”に見られた孤独や酩酊感を追求したことで、これまでのヒップホップファンには見られなかったインディーロックファンの獲得にも成功し、ヒップホップリスナーの枠組みを押し広げたとも評されている。

また、DrakeもKid Cudiも80年台半ば生まれであるが、そもそも彼らは内向的な作品を好む土壌が整っていた世代であるという指摘もある 。2001年の同時多発テロを10代の内に経験し、ストレートな社会批判や政治的メッセージの有効性を信頼せず、世界の嫌われ者としてアメリカが叩かれる時代だった以上、彼らは自分の内の世界に閉じこもる他なかったのである。

そのような鬱屈した空気感を「リアルなもの」としてKanyeを筆頭にしながらDrakeやKid Cudiが広め伝えていき、当時10代を過ごした今日のアーティストは、彼らの影響を強く受けることになる。ラジオパーソナリティのPeter Rosenburgは、自身の番組の中でこのように語っている。

「(当時)多くの大人は、これ(“808s”)はゴミみたいな楽曲で、二度とKanyeからこんな作品は聴きたくないと言っていた。一方で子供達は、これが僕たちがKanyeに望んでいたものだと反応していた。ヒップホップの枝分かれの始まりだったわけだ。」

 人気絶頂のヒップホップスターだったKanyeが臆することなくヒップホップの文脈で悲しみを伝えたことで、当時10代の少年少女たちは“808s”から「悲しいことは悪いことじゃない」というメッセージを受け取った。むしろ現実は悲しいことばかりで、多くの人が後ろ向きであることこそが「リアル」なのであり、華やかなアメリカンドリームは文字通り幻想であるという意識が芽生えたのである。

 “808s”のリリースから10年が経った今日のヒットチャートを見ると、そのメンタリティの影響はより明らかになる。音楽消費の主要な現場はストリーミングサービスに移行して間もないが 、Spotifyの発表するランキングを見ると、2018年はDrakeを筆頭とする“808s”の影響に言及した、あるいは作品に影響が見られるアーティストが肩を並べている。

Spotifyの”The Top Songs, Artists, Playlists, and Podcasts of 2018”を見ていくと 、「最も再生されたアーティスト」のランキングは1位にDrake、2位にPost Malone、3位にXXXTENTACIONとなっている。1位のDrakeに見られる“808s”の影響は前述の通りで、ここ数年は音楽ストリーミングの記録を自ら樹立しては更新するサイクルを繰り返しているほどの人気を誇っている 。続いて2位のPost Maloneと3位のXXXTENTACIONについては直接“808s”について言及はしていないものの、その作風からは“808s”の影響が感じられ、楽曲制作の現場でKanye Westとのコラボレーションを実現している。

Kanyeが2016年に発表したアルバム“The Life Of Pablo”に参加し、「キリストと仕事をしているような感覚だった」という感想を述べていることから、Kanyeに対して強い畏敬の念を抱いていることがわかる 。

XXXTENTACIONに関しては2018年の6月にわずか20歳で急逝したため明確な言及は残されていないものの、彼の死後発表された自身のアルバム“SKINS”にてKanyeが参加した楽曲“One Minute”が収録されている。そしてXXXTENTACIONの追悼イベントにもサプライズゲストとしてKanye Westが登場し、パフォーマンスを披露した 。

Post MaloneとXXXTENTACION共に90年台後半に生まれた世代であり、”808s”発表時はまだ少年だったが、彼らはヒップホップアーティストとして評価されながらロック歌手のように歌い上げる作風が特徴的で 、“808s”によって提示された内省的なヒップホップの可能性を追求しているだけでなく、その圧倒的な人気によって「必ずしもラップすることがヒップホップではない」ことを証明している。

ちなみにSpotifyの「最も再生された楽曲」に至っては上記三人の楽曲がランキング上位を独占しており、他の追随を許していない。今や大衆にとって、ヒップホップは「悲しく歌い上げるもの」として認知されていると言っても過言ではないだろう。

 それでは“808s”を製作した当の本人である、Kanye Westの変化はどうだろうか。Kanyeは2013年のニューヨークタイムズによるインタビューの際、「作っているときは気づかなかったけど、“808s”はこれまでになかったようなアルバムで黒人によるニューウェーブの到来だった。

俺は黒人のニューウェーブアーティストだったんだ。」と振り返り、前衛的な創作活動を自負することでヒップホップアーティストであることを半ば放棄しているようにもうかがえる。

実際、”808s”以後に発表された“My Beautiful Dark Twisted Fantasy”(2010)や“Yeezus”(2013)では学生生活になぞらえていた“808s”以前の素朴なKanyeの面影はなく、”Yeezus”収録曲の”I Am a God”に代表されるように「自らの権威をどこまで高められるか」という自己との戦いに執着していくこととなる。

エンターテイメント業界において絶対的な権威を手に入れ、富も名声も思いのままとなった彼は、ヒップホップの世界で磨かれたたくましい競争心を持て余し、前衛との戦いに身を投じることになったのだ。

また“808s”以後も精神的に安定したとは言えず、2016年には過労と彼の妻であるKim Kardashianがパリで強盗に遭ったストレスなどから入院し 、退院後には自分が双極性障害を患っていたことや鎮痛剤のオピオイドに依存し薬物中毒になっていたことも明かしている 。

しかしそれでも“808s”で見せたような思い悩む姿はなく、2007年の”Graduation”の後に発表される予定だった未発表アルバム、“Good Ass Job”のリリースも昨年9月に予告している 。10年以上にわたる紆余曲折を経て、Kanyeは再び「古き良きKanye」の姿を取り戻そうとしているのだ。

 “808s & Heartbreak”は現代のヒップホップへ音楽的に影響を与えただけでなく、「悲しいことは当たり前」であると10代の若者を強く後押しする重要な作品であった。そして現在のKanyeからもまた、“808s”から始まる苦悩の日々を乗り越え、再び等身大の自分としての一歩を踏み出そうとしている様子が見られ、新たなヒップホップの枠組みを提示する段階に入りつつあるのではないだろうか。

6章:カニエ・ウエストはアメリカを変えたか?

 これまでは商業音楽としてのヒップホップの勃興から“808s & Heartbreak”の登場、そして“808s”的な世界観が今日のポピュラー音楽を支えることになった背景を、音楽的な側面から紐解いていった。この章ではまとめに変えて、このような悲しい物語を受容するアメリカ社会に含まれる要因についても触れておきたい。

 “808s”が受け入れられるようになったアメリカの社会的背景として、一つにうつ病患者の増加が挙げられる。Kanye Westもまたその一人であったが、アメリカではここ数年でうつ病と診断される患者の数が急増しており、特に若者のうつ病診断件数の増加は著しい。35~64歳の増加率は25%前後にとどまっている一方、ミレニアル世代と称される18~34歳は47%、12~17歳に関しては63%と、偏った分布になっている 。

出典元ではこの原因を「電子機器使用の増加と睡眠障害の組み合わせ」と、うつ病への認識の変化を挙げており、うつ病を告白する有名人が増加したことで国民の意識が変わったとしているが、ここに“808s”が予見していた世界観が現れていたことも指摘したい。スマートフォンやPCが個人に与えられたことで若者の生活はインターネットに直接接続され、「ここではないどこか」へ文字通り自由に出入りすることができるようになった。

そこには思いの丈を自由に表現できる世界があったかもしれないが、今や現実離れしたセレブの生活や、ショッキングな自爆テロの映像、個人への誹謗中傷などが溢れかえり、テクノロジーのネガティブなイメージは増幅されている。

Kanye Westは自らを機械化することで心の痛みを回避しようとしたが、現代の若者もまたテクノロジーに安らぎを求めるも、もはやインターネットに安らぎは存在しない。未来技術は安心を与えるものと定義づけるなら、インターネットはあまりにも現実と地続きで、陳腐な技術になったとも言えるのではないか。

 鬱屈した社会背景と連動するかのように、アメリカでは薬物による死亡者数も急増している。2017年のアメリカにおける薬物中毒死亡者数は7万2千人を超え、この数字は2008年の約2倍である。アメリカでは毎年1万6千人が殺人で亡くなり、そのうちの1万1千人は銃殺というデータも衝撃的だが 、今アメリカで最も人を殺しているのは薬物なのだ。

グラフを見ると2010年代に入って死亡者数が激増している点が明らかになっているだけでなく、2013年から鎮痛剤であるオピオイドの過剰摂取の死亡者が増えていることがうかがえる 。オピオイド中毒はいわゆる米中西部から北東部にかけたラスト・ベルトに住まうトランプ支持者の多い地域で蔓延しており 、Kanyeも同様に依存していたことは前述のとおりである。

かつては重工業が盛んであったこの地域だが、ITとグローバル化の波を受けて衰退の一途をたどっている。今ではお役御免とされたラストベルトにおける薬物の蔓延は、古き良きアメリカの衰退を示唆的に物語る。アメリカの孤立主義は国としての自立よりもむしろ、米国民の孤独化を促しているとは考えられないだろうか。

 Kanye Westは“808s & Heartbreak”というアルバム一枚でアメリカに大きな社会的変化をもたらしたかといえば、判断の難しいところではある。虚勢を張るのをやめ、ヒップホップスターが弱気な心情を吐露することを早い段階で行なっていたことは確かで、その後雪崩を打つ勢いで黒人音楽、ひいてはアメリカのポピュラー音楽全体がメランコリックな様相を見せていったが、それはKanyeが「悲しい音楽は売れる」と声をかけたからだとは言い難い。一見華やかに見えるアメリカンドリームの姿はあまりにも暗く悲しい現実と表裏一体だったのを、Kanyeが適切なタイミングで暴露したからこそ風向きが変わったと見ることはできないだろうか。

大きな潮流として、暗く悲しい時代に突入していたことをKanyeは「リアルな問題」としていちはやく察知し、”808s”によってそのことを表現した。彼は“808s”でアメリカを変えたのではなく、変化するアメリカを予言していたのだ。
 
 幾度となくトランプ大統領と面会するだけでなく 、リベラル層の支持が厚い民主党を批判するなど 、歯に衣着せぬ物言いと行動で世間を騒がせ続けるKanye Westだが、その一挙一動に“808s”に含まれたような「予言」があるとするなら、どのような未来を彼から見出せるだろうか。あるいは現代へのアンチテーゼとして彼の逆張りめいた振る舞いを説明するなら、何を読み取ることができるだろうか。

Kanye本人も自認しているとおり、彼の作品はその時代においては激しく非難されても、来るべき時台が到来すると正当に評価されるというサイクルを繰り返してきた 。天才と狂人いつも紙一重だとはいうが、彼のように頓狂に見える人間の振る舞いを一呼吸置いて受け入れ、解釈する姿勢を持つ重要性こそ、彼がアメリカや世界中のファンにひとまず伝えたいメッセージであると受け取ることができるだろう。

(注:出典は原文参照のこと)


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