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春はくさい

依然として、湯

2月。

沖縄では桜が咲き始めました。
どんなに寒くなっても、
雪が降りしきっても、
いつだって次の季節は来てくれる。
優しいね、春。
.
.
ぐるぐると駆け回る頭の中
具体的には綴れないもどかしさも
少々感じるのだが、
ディテールが細か過ぎる文章には
うんざりしている自分がいる。
多分、好きじゃないんだな、
鮮明過ぎるのは。
春の陽気みたいに
輪郭がぼんやりとしていて
対象と対象とが溶け合うのが、
私にとっては心地いい。
.
.
あと、
春はくさいな、と毎年思う。
新しい命がぐんぐん生まれてる
あのにおい
.
2、3年前に、それをテーマに
俳句まで作ったくらい、いつも思うですよ。


でも、くさいからと言って、
不快なわけではなくて、
ただただ、「くせーな!」と思わず口に出して言いたくなるくらい、くせーんだ
思春期の学生みたいな、
特有のくさみ




湯になりたいな〜と、のたうち回って1年とかそこら経ちました。
沖縄に来て、いつも通り、頭の中引っ掻き回しながら、アレヤコレヤと1人で考えていて
「もしかしてみんな湯なんだはずね?(この沖縄方言にいっときハマってた)」
などと、
気づいちゃった
気づいちゃったワーイワーイ
(cv.デッカちゃん)
しました。


早めに気づいて事務所を辞めたと噂のデッカチャン


だとしたら、私は何なんだ?
湯になりたかったけど。

私は、いったい何になる?

「私は私にしかなれない」

大学生時代、
演劇サークルで脚本を書いた時は、
そんな科白のある、舞台を作った

アーティストとして活動していた時は、
アニメーションの中でキャラクターに
この言葉を言わせた

私は私にしかなれないのだけど、
みんなが湯なのだとしたら
私も湯なはず

湯が湯であるためには
湯を湯であり続けさせるための何かが必要

薪なのかな
燃料なのかな
重油なのかな

私も湯なんだから
湯のままで良い

そして湯にとって必要なものは
湯のための湯なのだと
気づきました。


友達が、
カウンセラーにも,カウンセラーが必要で、
カウンセラーのカウンセラーがいたりするんだよ
というような話を少し前にしてくれた。

そうか。

だったら私は
湯の湯になるのかな?
と、ここ最近は考えたりしている訳です。

変容を促すこと
言葉であたためて、癒して、
導いていきたいな

なんてことを思ったり

自分という人間が、世界にもたらすことは
とてもちっぽけかもしれない

長い歴史から見たら
マメツブのような存在かもしれない

マメツブならマメツブなりに、
未来の子孫のために、自分が出来ることを
させてもらって、還元できますように

自分の先祖がそうしてくれたように
命を繋いでくれたように

~

今日もあたたかい湯に浸かりましょうね♨︎

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