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朝鮮戦争3〜朝鮮戦争と韓国政治〜

本記事は、下記note(まとめ記事)の一部です。
あわせてご覧ください。
参考文献:山川出版社『国際政治のなかの韓国現代史』木宮正史


植民地時代が終わると、様々な主義主張の政治家間の政争が絶えなかった韓国ですが、朝鮮戦争がはじまると、李承晩大統領への権力集中を図る方向に作用します。

戦争遂行の決定権は、アメリカ側(マッカーサー元帥やトルーマン大統領)が握っていたものの、李承晩大統領にとっては、朝鮮国内の批判を封じ込め、それまで不透明であたアメリカの軍事的関与を明確にするという二重の意味で権力強化に寄与していきました。

ところが、
戦況が膠着すると、国内では与野党間の対立が起こり、対米関係の不安定さも露呈していきます。

ここでは、朝鮮戦争下の国内の不安定な政治状況を取り上げます。


◼️国内の状況について[p.27-]
・李承晩と韓民党勢力の緊張の激化

まず、韓民党の復習です。

韓民党…
正式名称は「韓国民主党」。宋鎮禹[1890-1945]が初代主席総務でしたが、暗殺されてしまったため、金性洙[1891-1955]がその後を担います。
金性洙は、日帝時代に朝鮮総督府と敵対しない関係を築いて富を蓄積した湖南財閥の一族で、解放後も財政基盤・組織基盤を有していました。
支持母体に影響が生じる、農地分配や親日派への処罰に対して慎重な姿勢を示していました。
李承晩大統領は韓民党の財力や組織基盤を、韓民党は李承晩大統領のリーダーシップを欲し、互いにつかず離れずの関係を築いていきます。

李承晩大統領にとって、農地改革に消極的な態度をとる韓民党は信頼のおける存在ではありませんでした。
そこで、自前の支持基盤を構築するべく、1951年12月23日、国会の内外に「院内自由党」「院外自由党」を創設。その後、2つの自由党は統合され、与党自由党が成立すると、韓民党は野党へと転落します。

※「院内自由党」は、もともとは李承晩大統領とは無関係に成立したという指摘もある。徐仲錫『李承晩の政治イデオロギー』(歴史批評社/韓国)では、李承晩とは異なる主張を展開し、党首には張勉[チョンミョン]を支持したものの、李承晩が院外自由党を主導し自由党として吸収、成立したという見方がある。

山川出版社『国際政治のなかの韓国現代史』木宮正史 p.28


◾️1952「釜山政治波動」[p.28-]

朝鮮戦争勃発により、李承晩大統領と野党との間には、一時政治休戦が成立。
ところが、1951年。大統領選挙を翌1952年に控えながらも、金性洙が副大統領に選出されます。
つまり、国会議員による選挙で李承晩が大統領に再選される保証がなくなったことが示された、ということでした。

李承晩は大統領直選制への憲法改正を2度企画しますが、野党優位な国会で否決されてしまいます。

そこで李承晩は、臨時首都の釜山一帯に非常戒厳令を敷き、北朝鮮の共産ゲリラが浸透していると託け、野党議員を拘束。弾圧を行い、大統領直接制への改憲を強行しました。

本来民主的な「大統領自選制」への改革を、戒厳令という非民主的な手段で強行した、憲政史上の汚点を残した憲法改正=「抜粋改憲」となりました。

※「釜山政治波動」に対しても、再評価する見方がある。
李榮薫は『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』(原書2007,2009永島広紀訳。文藝春秋。)のなかで、当時、李承晩政権とは距離を置き、野党に接近しつつあったアメリカへの抵抗。かつ、アメリカに過度に依存した野党に対する牽制であるとする新たな解釈を示した。

山川出版社『国際政治のなかの韓国現代史』木宮正史 p.29

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