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学習記録〜同化政策①〜

■参考文献紹介

こちらの書籍は、「同化政策」についてしっかり知りたいなと思い選んだものです。
つまり、大日本帝国が、朝鮮の人々にしてきたことを知るために選びました。
実は韓国の歴史を学び始めた当初から読んできた本のひとつです。

□クオン 人文・社会シリーズ07
「植民地朝鮮における日本の同化政策 1910~1945年」
著:マーク・カプリオ 訳:福井昌子
初版:2019年6月30日

発行人:永田金司 金承福
発行所:株式会社クオン
編集:黒田貴史

画像引用元:CHEKCCORI BOOK HOUSE

まだ私がまとめられていない続き(第4章)があるのですが。
8月15日を迎え、あらためて歴史を見つめなおし、私たちはどう生きるかを考えるきっかけにしたいとアップしてみることにしました。

朝鮮での同化政策に対して、当時の出来事はもちろん、日本人・朝鮮人、それぞれの地に駐在していた諸外国の人々、政治家、軍人、記者、研究者など、当時の様々な立場の人の考えが紹介されていて、いろいろな側面を知ることができたように思っています。

先に、ざぁっと歴史の流れを読んでいたこともあり、同化政策=旧日本軍が行ったひどいこと、という印象を持っていました。

実際ひどいこともたくさん起こっていますし、日本軍に協力することで生き抜いた朝鮮の人々も多かったということも知りました。そのことが第二次大戦戦後の朝鮮に大きな影響を及ぼしてしまいます。

また、当時の日本(=大日本帝国)では、一般の人々が深刻な食糧不足に見舞われていたり、劣悪な状況で働いていたり……
そういえば日本史の教科書にも「米騒動」とか『蟹工船』とか、載っていたなぁ、と思い出しました。

日本よりも悪い状況下で、日本の市井の人々が経験した苦しみ以上の困難を、朝鮮の人々も経験することになっていったんだろうなと想像することができました。

一方で、当時の日本人にも、朝鮮人の文化や歴史を尊重しようと文章を残したり、根拠のない決めつけは良くないと発言した人々がいたことを知り、わずかでも希望を感じる部分もありました。

本書冒頭の謝辞には、著者が韓国人・日本人に限らず、双方の研究者に調査を行い、韓国や日本のいくつもの研究機関に赴いて、たくさんの人々の協力を得ながら、丁寧に歴史を見つめていった様子が書かれていました。

このnoteでは、朝鮮と日本との関係に焦点を当ててしまいましたが、本書はそれまで注目されていなかった市井の人々や女性たちの力にも触れられていて、世界的な時代背景も知ることができました。


■はじめに

□植民地統治機構による決定[p.9-]

「帝国軍に志願するように長男に勧めた。」

朝鮮総督府発行 月刊誌『朝鮮』1940年3月号
京城警防団長・朝鮮総督府中枢院参議 曺秉相著「長男は志願兵になった」

この記事は、朝鮮人が自ら犠牲を払うことで、親族を中心とする伝統的な朝鮮社会(一族/親族)からの決別を示し、近代(国民/帝国)を受け入れていることを表している。

記事を書いた曺は、この行為は朝鮮人に当たり前に浸透しつつあることであり、朝鮮人がこの使命を支持していたと日本人は認めるべきと指摘。
半島民と内地人によってより偉大な日本人という存在が構成される、対等な構成要素となることを期待した。

☝️日本統治下後半の1940年、朝鮮人官僚の想いということに注目してみましょう!

📝同化政策に対する朝鮮人の意識は、以下の3グループに分類できるようです

  1. 本当の日本人になれると信じた親日派

  2. 反日派:民族自決による独立を追求することで朝鮮は救われる

  3. 親日派と反日派にはさまれて灰色的な存在となった朝鮮人

■第Ⅲ章 朝鮮同化政策の構築[p.155-]

□朝鮮同化の正当化[p.157-]

1910年〜、朝鮮併合初期の出来事に注目しています。

📝大日本帝国国内:

人種的、言語的、宗教的に2つの民族が類似していることから、任務をやりとげるという覚悟が日本人にあるなら必ずうまくいく

1910.8.25 東京朝日新聞 「朝鮮人は日本に同化しうるか」海老名弾正(後の同志社大学総長)

海老名は同化政策の利点を紹介。朝鮮人の同化は容易だという考えが多くの賛同を得ていた。

また、
・「朝鮮政府の『悪政』により、朝鮮人の能力は潰されてきた。」
・「朝鮮総督府の責務は、大日本帝国臣民と対等な役割を担えるように朝鮮人の能力を伸ばすこととされた。」
という意識も日本人の同意を集めた。

一方で「朝鮮人に文明人の利器を与えれば、いつの日かその利器を使って日本理解を妨害するかもしれず、危険だと考えた」者もいたり、二つの民族の違いを強調する意見もあった。

また、同化政策を段階的に進めるか、急進的に進めていくのかも議論が分かれていた。

📝朝鮮での動き:
・正式な法令は総督のみが発布でき、学校や路上で配布される新聞で流布された。
・日本人としてのアイデンティティを持たせるために、朝鮮人は公的な慶弔行事に参加させられた。
・植民者として朝鮮に在住した日本人は、自分たちの優位な立場が脅かされることになると心配し、日本の行政施策を支持しようとしなかった。
→支配者と被支配者とを明確に区別する場合に限って、同化を受け入れることができる。

□朝鮮人のイメージを形成する[p.163-]

📝明治以前の朝鮮人のイメージ
・日本とは異なる外国人
・徳川幕府と朝鮮政府との外交関係は対等であったが、日本も朝鮮も相手の文化よりも優れていると考えていた。
→日本:朝鮮使節を「来貢」「来朝」と呼び、幕府に「服従」していると見た
→朝鮮:日本が朝鮮訪問の権利を持たないのは、日本の地位が低いからと考えた
・朝鮮人の知識を高く評価(朱子学の学者は朝鮮文化を強く尊敬した)
・徳川幕府最後の10年で、朝鮮、琉球、蝦夷が緩衝地帯と受け止められるようになり、外国の干渉から国境を守るためには緩衝地帯を支配するしかないと意識が変化した。
・明治時代に入ると、朝鮮の「悪政」のせいで緩衝地帯が脅かされる現実味が増し、日本が介入する口実になった。

📝朝鮮の「悪政」の影響
・統治下の人々の文化的発展の押さえつけ→人々は荒み、怠惰になった。「怠けがちな朝鮮人」「こんな消極的なものでは(朝鮮人)魂とならぬ。(鳥賀羅門)」
・時代遅れな生活様式
・身体的に未発達(中島基次郎「朝鮮人の女性たちの骨盤が小さいのは、頭に重い荷物を乗せて運ぶせいだ」など……)
・衛生的でも清潔でもない

□軍事統制下における日本の教育施策[p.174-]

・教育の目的:みじめな状況から人々を救い出す
・実際のかたち:授業でどちらの言語を使うか、教育カリキュラムの焦点など、教育制度に関する議論が起こったが、支配者側と被支配者側を切り離すような分離・不平等教育に至った。

📝 朝鮮での教育の形/対朝鮮人 
※生徒が多すぎて資金が不十分。朝鮮語と漢文以外は日本語の教科書だったにもかかわらず、朝鮮人の教師が指導にあたったため教育の質も低下した。

  1. 「普通学校」カリキュラム 4年間(8歳〜12歳)

  2. 「高等普通学校」カリキュラム 男子4年間・女子3年間

道徳教育を重視。基礎ができたあとは実践的な教育を行なった。
日本語(毎週10時間)、朝鮮語、漢文を学ぶ時間が多く、理科などの教科は普通学校の3年生から始まった。
カリキュラム全体に倫理に関わる教訓が登場し、朝鮮人の教師たちも教えること全てに「日本人魂」を盛り込むよう強いられた。
…例えば:語学では倹約が強調されたり、日本人と朝鮮人の調和を伝える物語が掲載された。日本の神話や昔話、神道を取り上げた随筆、日の丸、その他の重要な日本文化の事物に触れる内容が目立っていた。

朝鮮人は、普通学校の他に実業学校、専門学校、西洋の伝道師らが運営していた私立学校、統合を免れた朝鮮の伝統的な学校にも入学できた。
一部の恵まれた朝鮮人が日本の中等教育に入学するためには、カリキュラムを埋め合わせる2年間の予備教育が必要だった。

📝朝鮮での教育の形/対朝鮮在住の日本人
「公立小学校教育」 6年間
歴史や地理など幅広い科目を学ぶことができた。

□社会教育と『毎日申報』[p.187-]

『毎日申報』:1910年8月発行の朝鮮総督府の機関紙。他の報道機関が成長する1920年までの朝鮮での報道を独占した。
当初の購読者層は教育を受けた上流階級(両班)と想定していた。

日々のニュースに加え、大日本帝国における朝鮮人への期待や、健康的な生活様式、食習慣、神社参拝の推奨、若年結婚の批判など、学校教育や家庭教育で強調されたメッセージを補強・説明した。

天皇と朝鮮の人々との関係についても多く報じた。
ー11月3日の明治天皇の誕生日に企画された、祝賀行事参加のための「貴族旅行」の様子や重要性を解説。朝鮮でも、日本人街のメインストリート(日本の近代的拠点)を練り歩くパレードに、2万人以上の朝鮮人と日本人の男性が参加したことが紹介された。
ー天長節には、天皇陛下が朝鮮の人々に向けたお言葉を第一面に掲載。
ー1912年7月の明治天皇崩御の際の行動指針

1937-45年の戦時中、総督府が朝鮮語の出版物を制限した時期にも、朝鮮人の協力を得るべく「正しい」主張を吹き込もうと努力した。

□結論[p.201-]

〜1920年までの最初の10年間、総督府は教育を利用し、メディアを独占することによって徐々に朝鮮人の同化を進めた。
しかし、民族で異なる教育制度を敷いたことで、結果、日本人と朝鮮人の分離を招き、日本人官僚は軍事規則を重視した。
1919年3月に始まった独立運動により、朝鮮人に対するイメージが覆り、同化は容易いという甘い考えを改めなければならなくなった。


■本記事の参考年表

1910年 日本が朝鮮半島を併合
 1910.8.22 日本が「韓国併合に関する条約」に調印。
 内務大臣は大手新聞各社に当局が許可していない併合についての報道を控えるよう警告(8月25日付の『サンフランシスコ・クロニクル』紙が報道)するも、行政施策に関する論説が溢れた。
 1910.8.30【朝鮮】 総督府御用新聞『毎日申報(日本語表記)』創刊
 1910.8.30【日本】 東京朝日新聞は大日本帝国の境界が広がったと紹介。  
 朝鮮に日本と同じ濃い色をつけ、朝鮮人はそのうち日本人となる可能性があると述べた。

1912年3月【朝鮮】 『毎日申報』ハングル表記号が発行開始。読者層が増加した。

~徐々に、運動が盛んな時代へ~
1918年【日本】 米騒動に200万人以上の日本人が参加。鎮圧にあたった警官は10万人にものぼった。※原敬(同化に取り組みつつ、差別を助長する政策が多数)が総理大臣になるきっかけとなった。
 1919年2月はじめ【東京】 朝鮮独立宣言起草のために学生が集まる ※3.1独立運動のきっかけに。
 1919.3.1【ソウル】 朝鮮人数千人が日本支配からの独立を求めて行進。総督府は厳しく対応した。
 1919年3月【東京】日比谷公園で普通選挙運動。学生、自営業者、労働者など5万人が参加した。

1931年 満州事変
1937年7月 盧溝橋事件
→世論は日本寄りに変化。
→同化を呼びかける日本に対して、多くの人はその政策や日本へささやかな抵抗を続けていた。

1938年 朝鮮人男子にも志願兵を認める法律を施行。大日本帝国内で朝鮮人の地位が向上した。(それまでは志願通訳や志願運転手として帝国軍に仕えていた。)

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