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「シリアスゲーム」の悪夢

以前、大学の講義で「シリアスゲーム」を作る体験をした。

シリアスゲームとは、社会問題を疑似体験するというコンセプトを持つゲームである。
多くは、中高生への教育用に開発されている。

私の班は、環境保全と経済発展の両立をもって「持続可能な開発」を目指し、プレイヤー各国の勝利を目指すゲームを作った。

環境を優先すれば、経済が停滞する。
経済を優先すれば、環境が破壊される。

ゲームバランスに多少の問題はあれ、ジレンマを設けることで、そこそこ遊びごたえのあるゲームを作ることが出来た。

☆ ☆ ☆

最後に、他の班のシリアスゲームを遊ぶ機会があった。私たちの班以外に3班だ。

他の班は、「デザイナーズベイビー」問題や「ジェンダーフリー」問題、そして「AIやロボットを教育の場に活用すること」を取り扱ったゲームを作成していた。

最後の「AIやロボットを教育の場に活用すること」を取り扱ったゲームが問題だった。

ゲームの内容としては、「教育の場にAIやロボットを活用することを、賛成・反対派に分かれて『ディベート形式』で討論し、ゲームマスターが勝敗を決める」といったものであった。

まず、諸々破綻している。色々言いたいことがあった。

「勝敗を決める」という形式は、この授業の目的に適しているとは言えない。
社会問題には「正解」が必ずしもあるわけではない。多様なステイクホルダー間に「ジレンマ」が存在することを経験してもらわなければならない。

また、そもそも「ディベート形式」という、ゲームデザインを既存物に丸投げしている態度にも疑問を持った。ゲームルールを考えることが、この講義の醍醐味ではないのか。

まあそこまでは良い。制作時間も十分に無かった故の問題でもある。

自分がモヤモヤっとしたのは、そのゲームを実際にプレイした時だ。
その講義は、中学・高校から教師が見学に来ていた。
私がプレイした回にも、現職の現代文の教師が参加した。

まず、現職の現代文教師と「AIを教育の場に持ち込むこと」についてディベートをする、勝てるわけがない。

さらに、最後のディベートのテーマが「AIを教師として導入することの是非」であった。
更に悲運なことに、私が「賛成側」、現代文教師が「反対側」となってしまった。

完全な負け戦となってしまったが、私は力の限り「AIを教師として導入すること」に賛成した。昔、中学校の時に担任にテストの解答用紙をシュレッダーされてしまったことを思い出し、例に挙げて、AIならばヒューマンエラーを起こさないと加えた。

だが、その意見は現代文教師によって「そんなことがあったのね~大変ね」と流されてしまった。

そして、現代文教師は「まず、AIが先生だとして、嫌じゃないですか?」と反論してきた。
なんだその感情論は。おかしいだろ。ディベート形式だから、感情論を持ち込むな。
ゲームマスターもその意見を評価している。ディベート形式はどこへ行った。

そんなこんなで納得がいかないまま、ディベートにも敗れてしまった。

どんなに暇を持て余そうとも、絶対にあのゲームはプレイしない。

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