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「誰も傷つけないお笑い」なんてないから、ネタの完成度で勝負してくれ

よく、ロバートの秋山竜次 や ずんの飯尾和樹 を見て、「誰も傷つけないお笑いをやっているから好き」と評価する人々がいる。

そういった言葉を聞くたびに、私はなにか違和感のようなものを覚える。

ロバート秋山の「クリエイターズファイル」や、ずん飯尾の「平日の昼間からゴロゴロ~」は「そういう人」が身の回りによくいるということ前提のネタではないか?
そして、それは、「そういう人」の特徴を捉え、敢えて誇張し、嘲笑の的としていないか?

元来「誰も傷つけないお笑い」などない。
小島よしお や なかやまきんに君のようなネタだって、「自分自身」を嘲笑の的とさせている。傷つける対象が「誰か」から「お笑い芸人自身」に替わっただけだ。

お笑いとは差異から生まれるのだから、これは当たり前だ。差異をわざわざ取り上げ、誇張し、どこが「フツウ」と違うのかを説明することがお笑いの本質にはある。

だから、笑いを取る人は、人を傷つけてしまう覚悟 と なるべく人を傷つけないための配慮ををしなければならない。

では人を傷つけてしまう覚悟はともかく、人を傷つけないための配慮とは何か?

それは、TPOによってネタを変えたり、表現や伝え方の工夫をしたり、関係性を見せたり、誰か個人を攻撃するのではなく「そういう人」にしてぼやかしたり、「自虐ネタ」のように傷つけても文句を言わない人を対象にしたりすることである、と私は思っている。

傷ついたと思う前に笑わせる。斬った相手が痛みを感じない居合道の如く。
お笑いのプロに求められる能力とは、そういったことだと思う。

☆ ☆ ☆

件のAマッソの「大阪なおみを漂白」のネタは、そういう意味でマズイ箇所が数多く見られた。誰でも観られるフリーライブで披露したネタであったこと、大阪なおみとまったく関係性がないこと…

何より、「薬局で売っているもので答える」という漫才のフォーマットがあったとはいえ、Aマッソのネタとは思えないほどに表現が稚拙であったことが一番マズイ。タブーとされている題材をストレートに扱い過ぎている。『ゲラ二チョビ』の中で、フワちゃんに「すぐにメタに逃げる」と言われていた独特の世界観はどこへ行ったのか。

その意味で、今回の件でAマッソには非常に失望した。
もっと新しく、誰も見たことがない彼女らの世界観が詰まったお笑いをこれからも作ってほしいと思う。
はるか昔からコスられている「肌の色が黒いから漂白剤」なんてつまらないネタはやめてくれ。

余談であるが、金属バットの「人種差別」のネタは、「人種差別的な発言」ではなく、「反人種差別的な発言をする人が自分の小さな差別意識に気付いていない」というネタであるので、数段上のレベルのネタであると思う。


雨上がり決死隊の宮迫博之が反社会組織と闇営業で繋がっていたことが問題になっていた時に、爆笑問題の太田光が「宮迫が(パーティーで)歌を歌ってたのが一番腹が立つ。ネタをやれよってことなんですよ」と批判していたが、この気持ちと近いものがあるのかもしれない。

芸人ならば、あくまでもネタの完成度で評価されるべきだ。

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