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縄文はポップカルチャーだ

縄文時代に発掘されるものは、そのわけのわからないものを含め、すべてが僕らと同じ庶民の文化。庶民の文化だからこそ身近に感じることができるし、その手触りに想像力が膨らむのだと僕は思っています。

ハニワって土偶でしょ、と、よく混同される古墳時代とはその点ではっきりと違う。古墳がどうのというわけではないけど(権力者の墓が肥大化している点で象徴的だけど)、日本の歴史は弥生の終わりから権力者の歴史が主になってしまった。権力者の文化のすべてが退屈とは言わないけど、より庶民の文化の方が面白いなと、庶民の僕は思うんです。

日本の歴史の中で、庶民の文化が花開いたのは縄文ともう一つ、江戸文化だけだ。庶民の文化は大きな戦争が無い時にしか生まれない(もちろんこの二つの時代があっけらかんとした平和だったとは言わないけれど)。
タピオカしかり、お笑いしかり、アイドルや文芸しかり、庶民の文化に権力が近寄り庶民の文化が権力に擦り寄るならそれはもうポップカルチャーでは無い。ポップカルチャーは庶民の側にいるから面白いし、先に進むことができる。

縄文の楽しみ方がわからんという声をよく聞く。たしかに土器や土偶は茶色だし、極端に古い時代。楽しみ方のとっかかりが見つからないのはしょうがないかもしれない。
縄文の楽しさって何と言われたらまず出てくるのがこの二つ。「それを学ぶ楽しさ」という王道の楽しみ方、それから岡本太郎が発見した「アートとしての楽しさ」。この二つだ。
岡本太郎のそれは、造形だけの話ではなくもっと根源的なものではあったのだけど、考古学という視点と芸術の視点は縄文というものを理解するのにはどちらも欠かせない視点だと思う。

しかし他方でこうも考えたい。縄文は庶民の文化。庶民の文化とは庶民の生き方であり庶民の楽しみ。いうならば庶民の生活そのものと言えるものだ。縄文はポップカルチャー。誰もが自分の視点で楽しめるのが縄文なのではないだろうか。
モースが140年前大森貝塚を発掘して縄文は考古学という視点を手に入れ、岡本太郎が70年前に上野の博物館で縄文土器を発見して縄文は芸術という視点を手に入れた。そしてそれから70年が現代だ。
そう、そろそろ縄文には新しい視点が必要なのだ。

僕はその視点はポップカルチャーだと思う。縄文zineがどうのというわけではなく、今、同時代的に色々な人が縄文にポップカルチャーの視点を獲得し始めている。
生活のそこここに縄文は取り入れることができるし、縄文という考え方は、視点や思考やあらゆるものの選択肢となりえる。ラフォーレ原宿の今季のグランバザールのグラフィックが土偶なのはまさに必然なのだ。
縄文って歴史とか芸術とか庶民文化の原点だとか、あんまり難しいことを考えなくても、誰もが楽しめるジャンルなんだと思う。

それじゃちゃんとした理解につながらないんじゃ、ちょっと流行ったりしたら消費されてしまうんじゃないかと心配される研究者の方々もいるとは思う。
しかしながら、かつ、僕がいうのもなんですが、縄文をナメてはいけない。そう簡単に消費されるほど薄っぺらいものではない。そもそもブームになんてなっていない。今のところ縄文のムーブメントは決して急激なものではない。少しづつ、少しづつ、しかし確実に縄文を楽しむ人は増えている。だから安心してほしい。

そのいくつかの視点は絶対に深まるだろうし、新しい視点はいつかきっと研究に生かすべきところもあるんじゃないかとすら思う。
縄文zineは各地で配布されています。見かけたらぜひ手に取ってください。そこでは縄文とあらゆるポップカルチャーとの融合が試みられています。面白いか面白くないかはあなた次第です。

縄文はポップカルチャーだ!

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