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三十稲場式というなんというか、なんとも言えない土器

新潟といえば火焔型土器。好き嫌いがあったとしても、新潟縄文の代表選手が火焔型土器なのはそんなに異論がないはずだと思う。
火焔型といえば、その炎のようなデザインは激しく、しかも厳密なルールの上に文様は構築され、今では美術の教科書にも何度も掲載されている土器だ。しかし、その存続期間は約500年。そのあとはぷっつりと姿を消す。ではその後の新潟の縄文人はどんな土器を作っていたのか。

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実は火焔型土器が作っていた頃の新潟縄文人は、火焔型だけではなく、同時期に大木式(東北の土器)、加曽利E(関東の土器)、勝坂系(中部高地、長野山梨あたりの土器)、焼町系(群馬、長野あたりの土器)などの多種多様な土器を作ってきた。それを前提に聞いてほしい。

火焔型はやがて作られなくなり、まずはこの栃倉式という土器が作られ始める。これは火焔型にも通ずるデザインだけど、どちらかといえば大木式の仲間のように言われている。

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栃倉式、めちゃくちゃカッコいい。この渦巻きへの執着と造形の完成度が半端ない。口縁部の立体感に目がいくが、胴部の渦巻きを半立体にしている処理が憎らしいほど気が利いている。新潟縄文人やっぱりすごい。

と、なったところに現れたのがこれだ。


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この土器は三十稲場式という。その特徴は胴部に施された刺突文と蓋。

名前は「30人しか乗れないイナバの物置」という趣で何とも言えないのだけど、この間まであんなに文様にこだわり、厳しいルールを守り、渦巻きの立体感を形にしていた彼らの新作がこれだ。チクチクと刺すだけの文様…。
なんというか、なんとも言えないとはこの事だ。

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ちなみに新潟県立歴史博物館の学芸員のMさんは、三十稲場式は火焔型よりも作るのが難しいと教えてくれたんですが、思わず「そんなわけない」と言ってしまった。そんなわけないよね。ちなみにその場にいた美術家の松山賢さんもそんなわけないと苦笑していた。

とはいえ、ずっと見てるとなんだか嫌いじゃないと思えてくるから土器は不思議だ。ヒモをとおしていたかのような首の部分に、土器ごとに統一して刺突文の角度や強さを変えていたり、何のこだわりなのかはわからないが意外にも、そこにこだわったりしているようなのだ。現在新潟長岡にある馬高縄文館で「三十稲場式土器とその文化」という展示をやっている。2019年11月4日までだ。行ける方はぜひ行ってみてください。ちなみに他館から借りてきた土器は撮影禁止だそうだ。撮影禁止だったけど十日町の笹山から出た三十稲場式は「上手」だった。集落ごとに上手い下手が伝統的にあったりするのも何だか縄文めぐりの楽しさの一つでもある。

三十稲場式の蓋はタジン鍋みたいで可愛い。

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