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『天気の子』は縄文映画の傑作だ

縄文界隈ではこの話題で沸騰している。というのは嘘で僕と国書刊行会の編集者の伊藤さんしかいまのところ言っていない。
新海誠監督が縄文映画監督なのはすでに『君の名は。』で分かっていた。ややふざけているけど以下のリンクでその時の考察を読んで欲しい。
http://jomonzine.com/pg213.html
それにしても「縄文映画」とはいったいどんな映画なのか、それもこのリンクで少しは分かってもらえるかもしれないが、簡単に言えば映画の中に「縄文」的な要素が濃厚に含まれているものを「縄文映画」という。
「ゾンビ映画」はゾンビが出て来なければならない。しかし、「縄文映画」には直接的に縄文人が出てこなくてもよいのだ。そもそも大抵の映画には縄文人は出ていない。
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ここからはネタバレ、映画を見てから読んで欲しい。
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で、『天気の子』がなぜ縄文映画なのかと言えば、一番重要な要素は、『君の名は。』から続く、新海監督の世界の解釈の仕方だ。自然という人を取り巻くその世界と人との距離感が縄文的なのだ。


たとえばシンゴジラや、アベンジャーズのような映画は、まさに超自然的とも言える「敵」に対して、人類の知恵や科学の力や、スーパーパワーや単純な腕力までを総動員して闘い、その結果、勝利する映画だ。それはそれでいい。最高に楽しい。
しかし、『君の名は。』と『天気の子』のその対峙の仕方は大きく違う。そもそも「敵」は「敵」ではない。主人公たちをも取り巻いている「世界」が彼らの前に立ちはだかる。そう、実は「彗星」や「天気」は倒すべき対象ではないのだ。
倒すべきものでないそういう存在に対して主人公たちは「祈る」。巨大な存在とたった一人の祈り、あまりにもアンバランスなこの構図でも、主人公たちは「祈る」ことで世界を救おうとする。当然のように、『君の名は。』の三葉と『天気の子』の陽菜は現代の巫女だ。人の持つ不思議の力や受け継がれてきた運命を背景に彼女たちは祈った。
縄文時代も祈りの文化だった。それは出土する祈りのための道具や、実用を超えるほど祈りの要素の強い土器のデザインからもあきらかだ。彼らが具体的に何を祈っていたのか知る由もないが、思うようにならないその世界の気を引くために彼らは祈ったのだろう。
現代人の僕らから見れば、祈って解決することなんて何も無い。それでも縄文人は飽きもせずに何千年も祈り続けていた。彼らは祈りの力を信じていたのだ。
そして同じように新海監督も祈りの力を信じている。だから祈ることで世界と渡り合おうとする。だから『君の名は。』と『天気の子』は縄文映画なのだ。


天気をテーマにしたのも興味深い。なぜ天気が狂い出したのかは劇中では理由らしきものは語られない。しかし、劇中に描かれる現実そのまんまの新宿の風景を見ているうちに観客ははたと気付くだろう。これはフィクションではない。冷房のきいた映画館を出ると、もあっとした熱気と湿気。夜中なのに異常な暑さに突然のスコール。現実のこの世界も天気は狂い始めている。この映画ははっきりと警告的なのだ。
思えば日本の歴史の中で、地球規模の気候変動に翻弄されたのは唯一縄文人だった。縄文時代、彼らはその気候に合わせて自分たちの生業を営んでいた。暖かい気温ゆえに海岸線は今よりも内陸の方まで迫り、それを縄文海進という。しかしやがて気候は寒冷化し始め、今度は逆に海は遠ざかる。植生が変わり食料は採れにくくなる。それでも縄文人は人口を大きく減らしながらもしぶとく次世代に向かっていく。実際に、そんな厳しい時代こそ祈りの道具がより作られるという傾向もあったりして、逆境に立ち向かう人の強さを感じたりもする。


『天気の子』のラストの東京の風景は、まるで縄文海進期を彷彿とさせる。水没する湾岸エリア、内陸までのびる海岸線、その風景はこの映画の白眉だ。縄文時代と現代のハイブリットな風景だ。これまで淡々と今の東京を描き続けていたところからのこの絵は強烈な印象を観客に与える。
気候変動、海進、巫女、祈り、これで縄文を意識していない訳がないと思うのだが、新海監督、実際はどうなのだろうか。少なくともこのラストの海進の東京は監督の描きたかった風景なのは間違いがないだろう。


ラストシーンで陽菜は坂道で何かに祈りを捧げている。これは何年も会っていない帆高に会えるようにと祈りを捧げていると考えたい。陽菜は始めて自分のために祈る。そしてその願いは叶い帆高に出会う。この海進の東京という舞台が二人の新たなスタートとなる。


縄文要素は他にもある。空に浮かぶ謎の水の生き物が縄文中期の長野(新海監督は長野出身)・山梨でしばしば土器に描かれていた想像上の生き物「ミズチ」=水の神さまを彷彿とさせること。これがなんなのか最後まであかされないと言う人もいるが、この生き物は「空が生きている」という表現で、この世界の舞台装置として非常に重要だ。まさか動いている「ミズチ」が見れるなんて中部高地の縄文好きはもっと狂喜乱舞して「くく舞(井戸尻考古館で考案された土器の文様を参考にした縄文時代の踊り)」を踊った方が良い。

縄文からつながる「ミズチ=蛟」だが、考察として荒唐無稽な話ではなく、『君の名は。』の劇中、茨城県の蛟蝄神社(こうもう神社)という水の神様を祀った神社の鳥居をモデルにした神社が出てくる。なので、ミズチ=水の神様というイメージは監督の頭の中にあったに違いない。それ自体は神話からの影響かもしれないが、ミズチは通常は龍として描かれる。今作のデザインとしては土器の文様に描かれるミズチに近い。

舞台となる東京のほとんどの場所が遺跡なのも偶然かもしれないが、帆高の故郷の神津島は縄文時代の黒曜石の産地として縄文好きにはものすごく有名な島だ。そしてなによりラストシーンの田端の駅をのぞむのあの坂道は「田端不動坂遺跡」という縄文時代から続く遺跡だ。ここは当時の東京湾の入り江だった場所で、そこから一段下がる駅の向こう側は縄文時代の貝の加工工場としてつとに有名な中里貝塚がある。


断言しよう。『天気の子』は、田端の入り江の縄文集落に住む少女と黒曜石の産地からやってきた少年の縄文ボーイミーツガール映画なのだ。
https://tenkinoko.com

※井戸尻考古館とは長野富士見町にある縄文の考古館。土器の文様を考察する図象学の研究の総本山的な存在。「ミズチ=みづち」も井戸尻解釈。考古学的には定説ではないにせよその考察は一見で必見の価値がある。

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