蛭子さんを通して見る人が作る常識

世間一般的に考える蛭子能収という男の印象とはどうなんだろうか

ギャンブル好き 漫画家 タレントなど肩書きは数多くあれどテレビ越しに受ける言動や振る舞いなど大方のイメージを集約すると「変な人」という一言に収まると思う
googleで「蛭子能収」と検索して見るとウィキペディア、公式HPに続いて目に飛び込んでくるのはマジキチ伝説 クズエピソードの文字であり およそろくでもない人生を送ってこないとこれらのパワーワードが公式HPの真下に現れる事なんて思いつかない
芸能というカタギではない枠に上手く収まっているので違和感はないが
多数派からはじき出す簡潔な答えは社会のハミ出し者 つまり「蛭子能収≒アウトロー」である

しかしどうだろう
これらは私たちが考える社会 作り上げた社会から一般的に見た蛭子さんに対する印象であり 蛭子さんから見る「社会という枠に収まっている私たち」とはどんな印象を持っているのだろう

蛭子さんに関する有名なエピソードがある
「お葬式で笑ってはいけないと思えば思うほど笑ってしまう」
クズである、紛れもない
蛭子さんに限らずそんな人が親族や知人のお葬式の場にいれば顰蹙物であるし あるいは叱られ 後の場で茶のアテにでもされてしまう程の行為であると思う
しかしこれも私たちが考える「お葬式の執り行いはこうである」「お葬式の空気とは慎み深く静かに故人を送ってやらねばならない」という暗黙の概念(常識)にとらわれた結果からハミ出たアウトロー蛭子さんの姿でしかなく
蛭子さんから見た私たちはもしかすると「なぜこんなことを大真面目に笑いもせずに我慢できるんだ?」と逆に不思議がっているのかもしれない
かくいう私も木魚のポクポクポクポクという一定かつリズミカルな音の合間に挟む チーーンという音の間抜けさがあまりにも場の張りつめた空気に合わなさすぎて笑いが込み上げてきそうになる事があるが 私は周りに足並みを揃えてハミ出さず生きる非アウトローであり「非蛭子」として生きている

唐突に結論から入るが 「蛭子=ピュア」である
例として挙げきれないほどの真偽不明なエピソードが山のように蛭子さんのWikipediaで読めるが、それらは冗談抜きにそこいらの三流書籍よりも読み応えがあり興味深い
そして一つ一つのエピソードを紐解いて行くと辿り着くのが「蛭子=ピュア」なのである

私たちが考える常識、私たち多数派が作り上げた社会に当てはめて見ると失礼な事を失礼だと思わず口にしてしまう蛭子さん
しかし蛭子さんからしてみると、思った事を素直に感想として述べているだけであり取り繕った嘘を言う方が失礼なんじゃないか?と思わせるエピソードが幾つもある
「人に気を使えない」「空気が読めない」
所謂、現代に蔓延するネガティブなワードの一つでありこの「空気」という存在に苦しめられている人がSNSなどを見渡しても数多くいるが、蛭子さんはそんなこと気にしない
蛭子ワールド 蛭子オリジナル オンリーワンである

蛭子さん自身の思想として「他人にどう思われたっていい、人に迷惑をかけていないのだから胸を張っていればいい、みんな人から嫌われたくないとか気にし過ぎなんですよ」と言い切ってしまっている
このあたりは蛭子さんの言動で少なからず不快になってしまう人が居た時点で破綻してしまう理屈ではあるけども「蛭子オリジナルワールドオンリーワン」
突き抜けて気持ちがいいくらいの「ピュア」と「フリーダム」が見て取れる

ここまで書いてくると「いや、ただ単にバカなんでしょ」という声が聞こえてきそうだ
しかし「創作についての自由さ、アンダーグラウンドでの本音の美しさ」について語る蛭子さんの姿や作品からはバカという二文字は全く浮かんでこない
むしろ思慮深く私たち多数派を静かに見つめる知的な芸術家
それは「アーティスト蛭子」の無敵の個性であり、その個性を日常に持ち込んだ結果として「私たち無個性な社会」から目立っているというだけでしかない
私たちが思い込むズレから生み出された悲劇のモンスターが「アウトロー蛭子さん」というだけであって
蛭子さんからすると最初から最後まで何ひとつブレることのない「ピュア蛭子」
賭け麻雀で捕まり記者会見を開いた際も全く悪びれる様子もなくヘラヘラとしていた「ピュア蛭子」
「誰にも迷惑をかけていないのだからなぜ謝る必要が?」という超純粋な心の声が聞こえてくる様で尊ささえ感じられるほどである

蛭子さんの思想で感銘を受けた物がある
それは蛭子さんの考える友人観であり以下のような物

「自由であることを第一に考えていると、友だちはいい存在である一方で、時には自由を妨げる存在にもなる。だから“誘われても断れる友達”以外は必要ない。友達の誘いだから断れないのはおかしい。誘いを断れないような間柄を友達というのなら、僕は友達なんていりません。」(Wikipediaから抜粋)

正直なところまさか蛭子さんの思想で感銘を受けたという事実に対しての驚きの方が当初は大きかったが、この内容は大いに納得した
私の感想を特に述べるまでもなくピンとくる人には解る思想だと思う

結局のところ何が言いたかったのか
SNSや実際に人と対話している際に自分と違う意見が目や耳に飛び込んで来た時にまず否定な考えから思考を始めていないだろうか
明確な事実(事象や結果)がある場合や明らかに道徳や倫理から逸脱した行為を批判するでなく世間話程度の個人の考えを述べている場合においても、必要以上に否定的になり、自分の中に積み上げた経験や価値観をまるで「正解」のように披露している人を見かけたりしないだろうか
そこから生まれる言い合いなどの争い「蛭子ズレ戦争」に終点はない、だって「正解」がないのだから

最終的にまとめたことが「そんなこと誰だって解ってるよバカ」「相手の立場になって考えろってことだろバーカ」と思われそうなほど陳腐な内容なのだが
ここで冒頭に戻って考えてみる
「本当に蛭子さんは単なる頭のおかしい変な人だと決めつけていいのか?」と
ちなみに私は蛭子さんのことを変わり者で素敵なギャンブラーだと思っています

おわり