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通り過ぎたことはある名張へ (J limited 01 / smc PENTAX-A 35-70mmF4)

 以前から名古屋方面にはよく行くので、近鉄でしょっちゅう通り過ぎてはいた名張駅。
 奇しくも「他の都市圏とは離れた地域の首都みたいな街」とTwitter(現エックス)で見かけて、名張もちょっとそんなとこあるかな。
 奈良に近いとも津に近いとも感じづらいし、伊賀国の中心は歴史的には上野だろうけど、城下町の上野と、伊勢参りの宿場町として育った名張じゃ結構成り立ちも違いそう。

 ということで、ちょっと降りて歩いてきたのでした。

駅前~名張藤堂家邸跡

 名張駅はちょうど工事中。
 駅前すぐに観光案内所もあるので、お菓子屋めぐりに引っ掛けた旧町案内マップをいただけた。レンタサイクルもあったけど、まあ私なら歩きで回れるかなってところで今回は徒歩。

 駅前に、けっこうさりげない感じで立ってる観阿弥像。伊賀の出身らしい。上野の。いやここ名張駅前。
 観阿弥の妻が名張市の小波田(もう少し東に小波田川あたりだろう)出身で、そこに観世座を開いた縁があるとのこと。観世座の跡地は神社になってて、さらに神社の跡地が今は観阿弥ふるさと公園になってるとのこと。

 駅から遠くないところに、名張藤堂家邸跡。
 名張藤堂家は、藤堂高虎の養子・高吉を祖にする。実子のなかった高虎が丹羽長秀の三男を養子にもらって高吉としたら、実子の高次が生まれちゃったのでそちらが本家に。
 高吉は高次の家臣になったものの、独立するんじゃないかと睨まれて冷遇され、名張に転封の上、子に5000石を分知させられ、15000石に格下げされることになった。
 高虎の葬儀にも列席を控えるようなややこしい立場になってしまった、不遇の人であるなあ。

 館内撮影禁止だったので写真はないけれど、現存部分はあくまでほんの一部。おそらく今の丸の内という住所のあたりがそっくり敷地。この敷地が数メートルの高台になってるので、実にわかりやすい。
 今も西側に水路が残ってるけど、これは陣屋の堀だったのかなあ。陣屋は防御にはならんような小さな堀を形式的に作ってたりすることもあるらしいし。
 屋敷のあった丘が桔梗が丘という名前で、これにちなんで、名張がベッドタウンとして開発されていった時にニュータウンに花の名前をつけるようになっていったそうな。隣の駅が桔梗が丘。

 それから、観光案内所でもらった地図の他に、ここに手書きの旧なばり町ガイドマップというのがあった。こっちのほうが味があるな。

 北側の壽榮神社に、陣屋の太鼓門が移築されている。門の脇が番所になってる武家屋敷らしいつくり。

 神社自体はさほど大きくはない。祭神は藤堂高吉だから、藩のための神社。

 陣屋西側の水路。昔からあるみたい。

 今の屋敷跡前の道を西にくると大手門だったところ。かかってる橋が、さっきの水路を越える橋。
 この大手道がそのまま初瀬街道からまっすぐ続いていて、門の手前の交差点で初瀬街道が北西に曲がって陣屋を迂回していく。街道からまっすぐ正門設けてるなんて城ならやらんと思うので、そのへん行政施設であって戦闘施設じゃないんだろなあ。

 無縁万霊塔、というのが、名張小学校の西側にある。
 元々元寇のときに課せられた重税に逆らう村が多かったことを発端に、伊賀はどうにも治まらない土地になってしまっていたのを、天正伊賀の乱で織田信雄に壊滅された。それで社寺も焼かれ、民も大勢犠牲になって、無縁仏などがそこらじゅうから見つかる土地柄になってたそう。
 昭和39年に、それらをまとめてここに祠を建てて慰霊しよう、となったのがここ。

旧町

 宇流冨志禰神社の参道と、初瀬街道が重なるところ。
 商店街になってるんだけど、これがまさに昭和の商店街で最高と言っていい。

 鳥居の近くの樹齢300年らしい大きな松。江戸時代の1771年に伊勢へお蔭参りするのが流行って、一日に9200人も旅人が来ちゃったことがあるとか。

 昭和のまま営業しているらしい店もあれば、若い人が入居して開いたらしい今風の店も少しある。少しなのは否めないけれど。
 でも婦人服屋くらいはわりと終わりかけの商店街でも残りがちだけど、ここはまだ古本屋やら時計屋やらも生きている。

 昭和な建物で、もはや営業してないらしい店も見られる。
 ただ、ここは中でなにか業務をやってる気配はあったなあ。これをこのまま別の仕事に転用するのは厳しそうに見えるが……。

 看板がもう最高。Cafe OKONOMI レストラン ダイハン。カフェとお好み焼き併記なんて大阪でも見たことない。
 しかも営業中。すごい。

 で、名張旧町にはこんな歴史的な町家もよく残っている。これが三重県登録文化財になっている。看板見えるでしょ。
 まだ住んでる方があるのはちょっと、文化財といっても写真撮るのは気が引けるのだけど、写真撮って観光案内所ややなせ宿に見せると三重県建築士会がコレクションカードを発行してくれる、というのをやってるらしくって。

 これは岡村家住宅。大和屋甚六の屋号で荒物屋をやってた家のお宅。今は取り壊されてるけど、かつては向かいに大和屋という和菓子屋があったような痕跡がある。

 引き続き、宇流冨志禰神社の方へと商店街は続く。
 どうもつい最近まで、ここに「上本町サンロード」と書いたアーケードがかかってたらしい。現地でもらったマップでもアーケードがあると書いてるんだけど、今ストリートビューで確認したら、2022年10月にはまだあった。

 こっちの商店街にも古民家、安田家住宅。
 元「黒田屋」、明治からは「安田藍染店」という藍染屋のお宅。
 江戸時代は商人が武士を見下ろすなといわれて、明確に二階建ての商家は建てにくかったんだけれど、「これ二階じゃなくて屋根裏の倉庫です」というタテマエにして、このやけに低い二階を作ってあるのが厨子二階という構造。文化財になってるのはこの造りのばかりだったなあ。

 もうひとつ、貝増家住宅。
 これは商家じゃなくて、名張藤堂家臣・貝増為作が明治に入った頃に建てたものだそう。厨子二階が控えめで、窓が小さい。屋根の上に煙出の小屋根もあるな。
 1階は商売なりの都合で作るだろうけど、厨子二階は好みで作るんだろうか、窓が多種多様だなあ。

 建物の隙間を見ると、まだ水路が続いていた。

宇流冨志禰神社

 商店街の先には、宇流冨志禰神社がある。
 延喜式式内社で、主祭神の宇奈根命もこの神社ならではで、元々赤い岩を御神体にしていたのが名張川のうねりのそばにある、とのことで、うねる→うなね、となったそう。
 宇流冨志禰(うるふしね)神社という風変わりな名前も、「潤う伏水」が語源だとか。ウルフに回されすぎたバーチャファイタープレイヤーの叫びではないらしい。じゃいあんすいんふぉーえゔぁー。

 なんとも威厳がある巨木だったであろう切り株が残っている。

 広大ではないんだけど、古社の趣があるな。
 そして境内で缶蹴りやってる子どもたち。そんな様子、自分が子供だった頃以来見てないぞ……

 神馬じゃなくて鹿がいるのはなんだろう……?

 天正伊賀の乱で何もかも焼かれてしまって記録などが失われて、鎌倉時代始めの石灯籠があるのが現物で残る最古の記録らしい。
 社殿は元和2年(江戸時代始め)の棟札があるそう。
 伊賀を筒井定次が治めていた頃には松倉勝重が名張を受け持っていて、領地の寄進を受けた。藤堂高吉が来たときにもさらに。

再び旧町&名張川

 このド昭和理髪店、見たところ改装中。まだまだいける。

 旅館清風亭、とちょうちんがかかっているけど、今は旅館ではなく鰻料理屋。
 文化財に指定されてるわけじゃないみたいだけど、しかしこれも造りが厨子二階だ。

 木屋酒造。江戸時代後期からの造り酒屋で、建物は明治22年にできた。
 厨子二階の窓がずいぶん控えめ。そしてわざわざ小屋根をつけて杉玉を吊るしてあるのが酒屋だ。

 山中家住宅。横に二棟続いてるなあ。

 で、山中家住宅の横のほそーい路地に、「江戸川乱歩生誕地」という碑が立っている。私は間抜けなので、事前情報なしだと山中家が生誕地なんだろうと勘違いしてたとこだが、今回はマップを貰っている。

 この細い路地を伊賀弁で「ひやわい」と呼ぶ。
 名張ではこういう細い路地を指し、上野では母屋と離れの間を指すそうな。

 そして路地の奥に、江戸川乱歩の生家だった場所がある。
 ひやわいの路地、ニンジャが身を隠すのにこうしたという話もある、そんなところを通った先にあるんだから、事前情報無しじゃ難しい。
 松尾芭蕉がニンジャだったことは有名だけれど、もしや乱歩先生も……。

 乱歩は1894年に名張のここで、津のほうで藤堂家に使える平井家という武士の家に生まれた。が、2歳で亀山に転居しているので、名張の記憶はなかった。
 後に1952年だから60歳近くになって、選挙の応援演説を頼まれて名張に来て、生まれた土地について「ふるさと発券機」という随筆を書いた。
 それを受けてここに記念碑を置くことになり、「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」の名フレーズが刻まれた。

 うっかりして旧細川邸やなせ宿を見落とすポカしちゃって、名張川に出てきた。
 私は大きな川のない和泉国で生まれ育ったもんだから、こんな川に三方まで囲まれている街というのは初めてだなあ。

 名張川に宇陀川が合流している。川向うに見えてるのは天理教。
 右手の黒田橋を渡ってきた初瀬街道が、左手の新町橋を渡って名張市街に入るの。

 で、ここから一旦駅に戻る。
 途中のイオン名張に入って食事しようかと思ったらスガキヤしかなく、まあある程度ローカルとはいえ気分でもなく、食べられずに駅まで戻ってしまった。
 ここから駅の東、夏見廃寺にいってみようかな、と思い、バスの時間を見たらちょうどいい。
 そして出発すると、なんか駅から思ってたのと逆方向に曲がった。あれ?
 はい、乗り間違えておりました。梅ヶ丘からユニー名張にいくバスに乗るべきところ、逆向きもちょうど同じ時間に駅にいて、そっちに乗ってしまった。ぐわー……。

大屋戸沈み橋

 だが幸い、事前チェックでちょっと気になっていた大屋戸沈み橋というのが、梅ヶ丘行きのバスで行けるところにあった。

 川のない土地に生まれた私には、沈下橋なんて物珍しい。大阪にはちょっと思いあたらない。
 名張には3つもあるとか。ちょっと西に行ったところにあるやつと、夏見廃寺の真南あたりにかかってるやつかな。

 明らかに川の真ん中なのにこの低さよ。

 そしてここからてくてく駅に戻り、真夏でなければ改めて夏見廃寺に向かおうかとも思ったものの、暑すぎて無理ということで帰路へ。


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