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言葉じゃないものに救われた話

自分が経験したことのない領域の困難に直面している人に、何か気持ちを和らげることを言ってあげたいのに言ってあげられない、何も言葉が思い浮かばない。そのことに不甲斐なさや無力感を覚える、ということって、経験ありませんか?私はありますよ。

けど、無理して言葉で慰めたり励ましたりしてくれなくても、思っていることや感覚を真剣に共有してくれたら、そのことでむしろ気持ちが救われることもあったよなー。という経験を思い出したので、書いてみます。まあまあ長いです。

・・・

中3の1学期の終業式の日、帰りがけに水泳バッグを持ち帰ろうとしたら、自分の持ち物を入れる棚からバッグがなくなっていた。

確か友達にも捜索を手伝ってもらったと思うんだけど、全然見つからない。下校時間もかなり過ぎてしまったので、友達には先に帰ってもらい、担任の先生(男性、英語教諭、多分当時30歳手前だったと思う)に相談しに行った。

先生は、一緒に水泳バッグを探してくれた。2人で他の教室や廊下、階段など色々見て回ったけど、やはり見つからない。

あまり使われてない校舎まで探しに行ったところで、「念のため」と先生がトイレに入ると、果たしてそこにバッグはあった。

あったけれども、水着はバッグから出され、クロッチ部分が裏返った状態でトイレの床に捨て置かれていた。

それを見て、2人とも、どうも水着に対して何がしかが行われたようだ(生徒かそれ以外が分からんがとにかく多分男子or男性が水泳バッグを持ち出して性的な文脈で…(略))と察知して無言になった。

2人で「あー…(察し)」ってなったあとに、私は、私よりもショックを受けていそうな先生に、自分は大丈夫、そんなに傷ついてないから、という感じのことを言った。

それは実際そうで、私は、もちろん引いてはいたものの、陰でこそこそ自分の水着をどうにかされても自分自身の尊厳は全く傷つかない確信があった。それに何より見つかったし(盗られた方が多分腹を立ててた)。

そんな私のある種脳天気な「大丈夫」を聞いた先生は、トイレの入り口のところでしゃがみ込んでしまった。先生は人生全体に疲れた感じの表情をしていて、顔色がむちゃくちゃ悪かった。

確かに先生にしてみれば、多分これは軽微とはいえ性的な犯罪事案で、大人だからこそ私よりも余計に事態の深刻さを感じられただろうし、水着を持ち出してどうこうしたのも生徒なのかもしれないのだから、いきなり複雑で悩ましい問題が降って湧いたという感覚だっただろう。

(それにあとで分かったことだけど、そのとき先生は普通に体調も悪かった。夏休みの間に結核が発覚し長期療養に入り、私たちの卒業式にも来られなかったのだ。)

私も何となく先生の近くに一緒にしゃがんで、2人ともしばし無言の時間を過ごした。

無言のうちに「水着の股の部分裏返して何したか知らんけど…」「引くわ…」「てか、ないわ…」「意味不明…」「とにかく非常に遺憾…」「誠に残念…」という感覚を共有した。気がした。

それだけでなく、沈黙したまま「先生、こんなことにも対応しないといけないとか、先生って大変すね…」「いやお前のがしんどいだろこれ…」と、お互いの憂鬱までも共有した、気がした。 私目線では。

何となく2人とも「誰がやったのか!?」というよりも「こういうことやるやついるんだな…まじ引くわ…」て感覚を共有していたと思う。

(先生としてこのできごとに毅然として対応と対策をすべき、という考えももちろんあると思うんだけど、そういう対応をするにはそのときの先生が疲れ切り過ぎていたように見えて、そのときも、今も、「先生が無責任」とか思ったことはない。何より私が、今もって誰がこれをやったのかを全く知りたいと感じない。興味がない)

私はそのとき、自分より先生のが大変そうだなーと思っていた。これをやったのが生徒だとすると、こういうことをする人間とされる人間、どっちも教え子としてそれなりに導いていかないといけないわけで、それってかなり難易度高い。

そうでなかったとしたら、今度は学校のセキュリティがガバガバすぎることに頭が痛いはず。

それに、そんなことより、先生が私に、何もそれっぽい慰めやとりなすようなことを一切言わなかったことに、救われるような気持ちでもあった。

勝手に性的な対象にされて自分のものを勝手に持っていかれ好きにされる、というわりとデリケートな領域の、本人もまだどう受け止めていいか分からないことに、先生が勝手にどんな方向の意味づけもせず、ただショックと憂鬱のムードを共有してくれたことがありがたかった。

どんな言葉も大した解決や慰めにならなさそうと感じたときに、ただただ一緒にそのショックや憂鬱を共有するというのは、その場を終わらせようと何かいい具合の言葉をかけるよりも、もしかしたらエネルギーを消耗する行為なのかも。

だからこそ、いろいろと一所懸命相手のために考えた末に、結局何も言えなかったとしても、その沈黙に込もったものは相手にも伝わっているはず、と思う。

結局誰がやったのかは分からず、学校でこの件がどう処理されたかも分からずじまい(先生結核で休んじゃってたし…)だったけど、今思い返しても、先生は私に何も言わないでくれて良かったなー、全力で憂鬱を共有してくれてありがたかったなー、と思う。

もしかしたら、このとき先生自身は、自分の身体の不調でいっぱいいっぱいで、ろくな対応ができてない、と思ったのかもしれない。でも私は、何か気の利いたことを言ってくれようとするより、余計なことを言わないでいてくれることに、とても思いやりを感じましたよ。

誰かのかけてくれた言葉に救われることは往々にしてある。でも、このときの経験から、誰かが自分に差し出してくれた言葉ではないものにも、大いに救われることはあるな、と思っている。


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