見出し画像

フェニックスの火葬- 日大大麻事件・試論 3


食人種の大好物。

ジョルジュ・バタイユ「ドキュマン」p78

ベンヤミンにおいて、眼が絶え間なく刺激を処理することを求められる。知覚的な労働という近代の体制は、仕事においても余暇においても同じように出現する。眼は、工場では工業的生産のリズムに足並みをそろえるように、工場の門の向こう側では複雑な視覚的記号圏を航行するように訓練される。

レフ・マノヴィッチ「ニューメディアの原理」

ヴィト・アコンチが1970年に発表した『Three Adaptation Studies』は、以下の3つの過剰な接触をとらえた映像によって構成されている。
1.Blindfolded catching
アコンチは、目隠しによって網膜-光の接触を遮断した状態で、自身に向かって投げられたボールに接触する。
2.Soup and eyes
アコンチは石鹸の泡でいっぱいのボウルを手に取り、中身に顔を浸す。石鹸の泡の中で、瞼を開き、網膜 - 泡の接触を起こす
3.Hand and mouth
アコンチは自らの手を口に入れ、これを呑み込もうとする。それは不可能であり、アコンチは嗚咽する
アコンチの自認として、これはタイトルにあるように、「adaptation(適応)」の実験である。1において、アコンチは視覚が遮断された状態でボウルの到達するタイミングを予想し、もぞもぞと動く。2においてアコンチは、石鹸まみれの中でわざと目を見開く。網膜に対して石鹸のアルカリの刺激が起こり、しみるのをこらえる。3において、異物を無理やり、その苦痛に耐えつつ口に運ぶ。これらはいずれも、あまりに過剰で、忌避すべき苦痛に対する適応である。
adaptはad(方向)とaptus(馴染む)で構成されており、ラテン語のadaptareを語源とする。そのため、二つの異なるものが合わさり、そこになじむことを意味する。であるから、接続機器を意味する「adapter」や、採用者を意味する「adopter」にも使われる。
接触は、適度な形をとる限り、adaptableなものである。

身体に対しては、やわらかい物の接触であれば、それはときに心地よいものである。だが、一定の質量をもったボールが、一定の速度でやってきたとき、それがもつ運動エネルギーを皮膚はとらえきれず、過剰な接触として、痛みとして知覚される。
網膜に対しては、適切な電磁波であればそれは視覚情報として「adapt」する。だが、石鹸の直接的な化学反応となったとき、それは過剰な接触となる。
味覚に対しては、適度な接触であればそれは美味となり、心地よいものである。だが、手を飲み込もうとしたとき、それは異物であり、反射的にそれを吐き出そうとする。
これらの反応は、過剰な接触による身体の毀損を回避するためである。
アコンチは本作において、こうした過剰な接触に対し、無理矢理に適応しようとする。
これがアコンチの、空間に対する適応である。その模索をとらえた映像が『Three Adaptation Studies』であった。
—------------------------------
二つの接触に端を発するIncidentにおいて、日本大学はそれぞれ記者会見を行っている。この映像を観察してみる。
Incident1の謝罪会見

https://www.youtube.com/live/SINjcljxlGA?feature=shared

7:52において、不正タックルを実行した学生(以下Aとする)は、彼の上半身全体が映るフレームにおいて頭を下げる。
Aは日大フェニックスにおいて、で活躍していた選手であり、まさしく「バカみたい...だけどステキ」な人物であった。かれはスーツで、上半身の映るショットで深々と頭を下げ、誠意を示したことで、その実直さが評価され、
「許される事ではないかもしれないけど、この会見を見て選手にとても誠意を感じた」(コメント欄より)
という感想を引き出した。
ところで、この映像におけるAの身体は、ことの発端であり、関西学院大学の選手の身体と接触をしたのと同じ身体である。我々が注目すべきことは以下だ。
身体の接触において、上半身がとらえられていることである


アコンチの『Three Adaptation Studies』

アコンチはボールと身体を接触させ、その過剰な運動エネルギーとの接触を果たしたとき、上半身全体の映るショットを映像にしている。この映像は、適応の実験における当事者的な存在である、身体に注目すべく、このショットが使われている。
ここに、共通性が現れる。Incident1の、身体の過剰な接触に対する謝罪と、アコンチとボールの過剰な接触は、同様の範囲に注目することで、記録されている。
Incident2の謝罪会見

https://www.youtube.com/live/TKFEuFlGbpw?feature=shared

1:37:04において、謝罪するのは林真理子理事長である。ここで、林は顔全体を映像に納められる。Incident1と違い、謝罪するのはIncidentを体験した本人でなく、理事長である。
さらに、切り抜かれるのはその謝罪者の顔である。
「林真理子理事長もこういう人だったんだね 残念だな」
コメント欄より
そして、この映像はIncident1におけるAの謝罪と違い、あまり好感を与えていない。

アコンチの『Three Adaptation Studies』

アコンチの『Three Adaptation Studies』において、アコンチは手を口に突っ込む。その映像は、顔がアップされた状態である。ここでも当事者は、すべてがこのショットにおさめられている。アコンチの手と、口以外に、ここで過剰な接触を行う者はいない。
—------------------------------
ここで注目したいのは、それぞれのIncidentと会見において、注目されるのは行為者の身体全体をとらえた映像と、そこへの注目である。
Incident1において、過剰な接触を果たしたのはAの身体である。問題の接触は、映像に収められ、当事者であるAと、接触した身体はそれ自体が、会見において映像におさめられた。
「バカみたい...だけどステキ」なAは、過剰な接触を引き起こし、身体を棄損した。その当事者としての身体を表に出し、その身体を以て謝罪したのである。
一方のIncident2の記者会見において、当事者は登場しない。過剰な接触を引き起こした北畠や、大麻は登場しない。ここで写っている林の顔、詳細を述べるならば眼球、耳、口は、大麻の存在を告発により読み、聴き、対応を口にしたものであり、事件を伝聞した、間接的な次元にあるものである。であるから、好感を与えることは不可能であった。
—------------------------------
ところで、林は網膜情報に悩まされた人物である。彼女は、「ルンルンを買っておうちに帰ろう」以降、作家として成功したある日、赤塚不二夫にそのルックスを馬鹿にした漫画を書かれ、泣き寝入りしたという。
私は若い頃、赤塚不二夫さんが小説誌でやっていた連載で、信じられないほど下品な内容の漫画を描かれて揶揄されたことがあります。今の時代なら、即炎上するような名誉毀損レベルの描かれ方をしたのですが、泣き寝入りするしかなかった。その後飲みに行った先で偶然一緒になり、赤塚さんから「あの時はごめんね」と謝罪されました。[1]
この漫画とは、「お笑いはこれからだ」の「ガープの世界」であると思われる。
「欲求不満の林真理子が巨額の印税でハーレムを建造するものの、落ちは、集ったメンズ達が皆、古代中国の宦官と同じくイチモツを去勢し、林真理子にお仕えするという悲哀に満ちた帰結を見る。」[2]
男性器とは、接触に用いられる身体の器官の一つである。これによる接触を回避させるべく、この「メンズ」たちは自らの身体を、積極的に既存するのである。
ここで重要なのは、「メンズ」たちはアコンチのように、そこに無理矢理に適用しようとしたのではなく、棄損によってそこから逃れようとしたのだ。
—------------------------------
ところで、アコンチの『Three Adaptation Studies』という実験において、過剰な接触を行うことはいかなる意味があったのだろうか。

Vito Acconci Centers(1971)https://www.vdb.org/titles/centers

この「実験」の翌年、アコンチは「Centers」という作品を発表する。約20分間、アコンチはカメラに向かって指をさし続ける。

ビデオモニターに映し出された自分の姿を指し示す。私の試みは、指を常にスクリーンの中心に置いておくことであり、指に焦点を絞り続けることである。その結果、(テレビの映像は)活動を一転させる。自分自身から離れた、外部の視聴者を指し示すのだ」。
-- ヴィト・アコンチ「場所としての身体-自分自身への移動、自分自身の演技」『アバランチ』6号(1972年秋号)
カメラは、手前のアコンチの指に焦点を定めようとする結果、アコンチの指先はやがてピントが外れ、ぼやける。ここで、鑑賞者とアコンチの間に、以下のような接触のフェーズが現れる。
アコンチの指 - カメラ - 鑑賞者の網膜
すなわち、このピンボケは鑑賞者とアコンチの間の、カメラという別個の視覚の存在を明示する。アコンチの指は、この構造を明示するための装置である。
—------------------------------
アコンチの実験による、過剰な接触は失敗に終わったのだ。もはやそれらはカメラを通してしか鑑賞者は接触できない。すなわち、当事者になることはできない。
であるから、「Cetners」によりカメラという視覚の存在を明示することでのみ、この接触に鑑賞者は直接加わることができる。
—------------------------------
Incidentにおける記者会見の鑑賞者たちは、いずれもこれに接触することはできない。
「お笑いはこれからだ」の「メンズ」たちもまた、接触からの回避を求め自身の身体を既存するのだ。
—------------------------------
ここで初めの問いに回帰しよう。北畠の行動や大麻の存在は果たして林のフレームにあったのだろうか。
Incident2における大麻は、我々の視覚に映らない。すなわち、Incident2に対峙することは林も含め、誰でもできない。そのため、林はそもそもフレームを通してこれを見ることはできていなかったのである。
ここで、アコンチの指が必要になる。北畠と大麻の間の、過剰な接触に、アコンチの指を介して我々も接触しよう。この指の役割を担うのは何か。

それは林の「顔」である。(続く)

参考文献
[1]https://president.jp/articles/-/70621?page=4
[2]https://blog.goo.ne.jp/douteinawa/e/fce71a4825be9d84badaeff41b91f73b

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?