サムネ

あいちトリエンナーレ2019に行ってみた感想と疑問、そして思うこと。

あいちトリエンナーレ2019に行ってきた。このイベントは愛知県で2010年から3年毎に開催されている国際芸術祭のことである。

行ったと言っても行こうと思い立って行ったわけではなく、いとこが夏休みの美術課題のレポートで美術館に行く必要があったので付き添ったらたまたま会場だった、というわけだ。

そしてこのイベント。現在、波紋を呼んでいるイベントでもある。プログラムの一部である「表現の不自由展・その後」がネットを中心とする批判を受けた炎上した。それに加えテロ予告や脅迫を含む抗議を受け開催からわずか3日で当該展示の公開が中止となったのだ。これに名古屋市長が抗議文を提出したり、それに対して憲法学者らが共同声明を出したりと、その波は今もなお広がりつつある。

そういったイベントに訪れたので率直な感想と疑問、そして思うことを記したい。

◆前置き

予め断っておくと僕は決して政治や芸術に明るいわけではない。あいちトリエンナーレの問題に関して全体像をしっかり把握しているわけでもない。ただただ「あいちトリエンナーレに訪れた一個人の感想」として読んでほしい。それに加えて愛知県内の4会場の中で「名古屋市美術館」にしか訪れていないので、僕の感想は全く的を得てないものかもしれない。予めご了承願う。

■感想〜作品を見て受けた強い衝撃〜

最初に感じたのは頭をぶん殴られたかのような強い衝撃だった。

今回あいちトリエンナーレに行ったのは実は偶然である。中学生のいとこが夏休みの宿題で美術館に行きレポートを書く必要があったので付添いで行った美術館がたまたま会場だったのだ。なんならついでの用事でしかなく、その後名古屋観光こそが真の目的だった。

だからこそ、そこに展示されている様々な作品の持つ社会の抱える問題へのメッセージ性の強さに衝撃を受けたのだ。

皇民化政策、ジェンダー問題、遺伝子に関する問題、旧ユーゴスラビアの内戦。様々な問題に対して芸術という表現で世の中に対してメッセージを送っている。

特に『無情』という映像作品が強烈な印象に残った。

【EXT】藤井光レクチャーパフォーマンス/鑑賞ツアー『無情』

歴史的事象を現代に再演(リエナクトメント)する手法で、社会の不可視の領域を構造的に批評するアーティスト、藤井光。今回は、20世紀の「情の時代」、すなわち個々人の内面さえもが全体主義に動員されてしまった時代を振り返ることで、今日の「情の時代」を考察する。かつて日本統治下の台湾で製作された国策プロパガンダ映画「国民道場」では、10分29秒の映像の中に、現地の台湾人が「皇民」、すなわち「日本人」になるための一連の訓練や宗教儀礼の様子が記録されている。それはまさに個人の感情を一切排除した「無私」「無情」の映像であり、当時の軍国主義・植民地政策の価値観をそのまま体現するものであった。この映像を、現代において批評的に「再演」するにはどうしたらいいか。この問いに対し藤井は、愛知県内で学び働く若い外国人らとともに「もともと日本人ではない状態から日本人である状態に変える(変わる)」ための舞台をしつらえ、そこで展開される集団および個人の身振りを撮影、5チャンネルの映像インスタレーションとして発表する。

出典86【EXT】藤井 光レクチャーパフォーマンス/鑑賞ツアー『無情』(N60) | あいちトリエンナーレ2019

かつて制作されたプロパガンダ映画に合わせて同時に再演された映像が流れていた。それらを見比べることで文化的背景の異なる人々を同じにしようとする当時の異様さを感じ、単なる事実だけではない何かもまた感じることができたと思う。

歴史の教科書でかつて習った「皇民化政策」という単語よりも強烈に胸に来るものがあったのだ。芸術の持つ力を思い知った瞬間だった。

他に展示している作品もそうである。普段何となく聞くような問題に対して芸術を通して強烈な衝撃を持って伝わってくる。

だから、その衝撃を受け止められるか否かは人によって変わってくるに違いないと感じた。場合によっては不快感を感じる人もいるだろう。あまりにも込められたメッセージが強く生々しいように受け取ったからだ。(これは受け止められる方が良いとか悪いとか、そういった話ではない。ただ事実としてそう感じたということをご理解いただきたい。)

現に会場に置いてあった、あいちトリエンナーレの感想ノートに書かれた感想は賛否両論だった。「深く考えさせられるイベントでした」と書いていた人もいれば「プロパガンダ展である」と書いていた人もいた。

疑問〜本質的な違いはあるのか〜

疑問に思ったのはネットを中心として批判を受けた「表現の不自由展・その後」のプログラムと、その他の作品との本質的な違いである。

何か世の中に存在する・していた不合理や不条理、社会の抱える問題への継承に対するメッセージという点では全く同じなのではないだろうか。

むしろ『無情』という作品を見て「表現の不自由展・その後」と同じように大量に怒り出す人がいたとしてもおかしくはないような気がする。

あいちトリエンナーレで展示されている作品を見たのだけれども、僕が訪れた「名古屋市美術館会場」以外にも世の中の抱える問題に対するメッセージ性の高そうな展示はいくつも見受けられた。

主観的な意見ではあるけれども全体の中で問題となった「表現の不自由展・その後」だけが異質だったわけではないように感じる。

そして、それはあいちトリエンナーレの公式ホームページによるニュースリリースを見る限り「情の時代」という全体のテーマに相違が無いように思うのだ。

ただ、確かに「表現の不自由展・その後」の中には個人的に違和感というかやりすぎなのではないかと感じる作品は存在した。ただあくまでそれは個人的な意見でしかなく、それによってある1つのものが例外視されても良いものなのだろうか。数ある世の中の問題のうちの1つであるのに。

立場が違えば全く同じ経験をしたとしても受け取り方は異なってくる。それをどう消化するかは各私人次第なのだ。絶対的なものが限りなく少ないこの世界で一つの立場から断定できるものだろうか。

疑問〜言論の自由と公共の福祉との兼ね合い〜

ここまで長々と述べてきたけれども要は「あの場にいわゆる“言論の自由”は守られていたのだろうか?」ということが問いたかったわけなのだ。

「名古屋市の市長が出した声明は、ある1つの立場から特別視したものではなかったのか?本当にそれは許されることなのか?」という疑問もある。

ただ忘れてはならないのが言論の自由というものを語る場合「公共の福祉や公序良俗に反しない限り」という但し書きを念頭に置いておく必要がある。

要は「なんでもありというわけではないよ」ということだ。仮に全て自由だということにしてしまえばヘイトスピーチも差別もOKになってしまう。

あの展示の中には昔から抱える深い問題を扱った作品がいくつかあり、何かが起き兼ねないリスクは簡単に想像し得ることだと思う。それを無視して実行に移したことでテロ予告や脅迫を通じて「公共の福祉」が脅かされた、とも捉えることができるのは考えなければならない。これに関しては名古屋市長もキッパリと述べているのである。

こういったことを考えると問題は非常にややこしくなってくる。

疑問が止まらない。何が良くて何が正しいのか。そしてそんな絶対的な正解はきっとない。どういう意見を自身が持つべき、もしくは持ちたいのかがわからなくなってくる。

疑問〜感情論だけになっていないのだろうか〜

加えてだ。ネット上で「表現の不自由展・その後」での展示作品のデマが飛び交っている。

もし各私人が自由に発信できるTwitterや匿名掲示板等でこの問題に関して情報を得た人がいるのであればしっかりメディアの情報やイベントの公式ホームページの解説をしっかり読み直してほしい。

存在しない作品の捏造や作品の持つ一部の要素の誇張や曲解が今のネットには溢れている。

気持ちはわからなくもない。作品の持つインパクトの強さから感情を逆撫でされた人も多いだろう。それにフェイクニュースを始めとする人々の感情を動かすようなセンセーショナルなニュースは拡散されやすいし、対立構造のある問題だからこそ相手を倒そうという意志から知らず知らずのうちに悪意のある書き方をしてしまったのかもしれない。

だが感情論が先走りすぎていないだろうか。もちろん感情論が悪であり論理的なのが良いということではない。感情の持つエネルギーの膨大さは十分に理解しているつもりだ。

けれども感情どうしのぶつかり合いでは何も解決されない。一旦は互いに冷静になる必要がある。相手を批難するだけでは何も始まらない。

あいちトリエンナーレ運営委員会の展示中止判断は正しいと思う

疑問は残るものの運営委員会の展示中止判断は正しかったと僕は思う。

テロや脅迫の声明が出ているのにも関わらず展示を続けることはできなかっただろう。場合によっては大きな被害が出ていたかもしれない。

これはだけは言うことができる。逆に言えば今の僕にはそれしかできない。

最後に〜疑問を持ち続けることの大切さ〜

これまで記した以外にもあいちトリエンナーレ2019に関して様々な問題が議論されているけれども今回は割愛することにしょう。

ただ、今回のあいちトリエンナーレの問題に限らず世の中には様々な問題で溢れているのは事実なのだ。

そしてそれは当事者どうしの言い分があり簡単に結論が出せないことの方が多い。何が良いのか悪いのかというのは簡単に断定することはできない。

どちらかの立場につき相手を攻撃するのは非常に楽なことであると僕は思っている。けれども、それが本当に最善策なのだろうか。勝ち負けこそが基準になっていないだろうか。

それによって生まれるのは、ただの思考停止ではないのか。ある単語を聞いた時に条件反射でレッテルを貼って決めつけてしまうのは思考停止なのではないのか。

それではないも始まらない。

戦うのではなく相手の意見を汲み取るところから解決は生まれてくると僕は思っているから。

ここまで読んでくれた人は、僕が結論を出したり自分の意見を言う勇気も無いようなやつだと言われるかもしれない。

でも、今はそれでいいと信じたい。

それでもまずは思考停止をせずに疑問を持つところから始めたい。

そんな考えは理想論的過ぎるのだろうか?そんな世界を望んではだめなのだろうか?

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