悪役はつらいよ

まるで平成の滝沢馬琴である。
世間は池井戸潤を欲している。下町の工場がロケットを飛ばしたかと思えばタイヤが空を飛び、ノーサイドゲームに倍返し。ドラマに映画に引っ張りだこの作家は、新作が出れば飛ぶように売れる。
作風は至ってシンプルだ。色恋や伏線は削りに削って、清々しいまでの勧善懲悪。池井戸作品の魅力は、『びっくりするほど憎々しい悪役』にあると思う。嫌味な同僚、パワハラ上司。そんな身近な悪役に思いを馳せながら、彼らが正攻法により破滅していく様を見るのは痛快だ。もちろん内容も面白い。
池井戸特需は、現代のストレス社会によって成り立っている。不思議な時代になったものだ。

そうは言っても、悪役だってなかなか辛い。
ストレスの溜まり場は、いつもどろどろとした雰囲気が立ち込めていて、呪いのように足首を引っ張ってくる。ストレスを向けられる側はだいぶ悲惨だ。
ずいぶん重たいものを背負ってきたのだろうな。引退を発表した岩下敬輔に、そんなことを思った。
Jリーグで1番のヒール(悪役)はと聞かれたら、識者はかなりの割合でこの人を挙げるだろう。
まずギラギラした目つきがやばい。無精髭と黒いバンダナは相性抜群で、笑っちゃうぐらい任侠団体の構成員に見える。
その風貌もさることながら、口を開くともっとやばかった。敵味方構わずギャーギャーと怒鳴り散らかし、審判に詰め寄り、なんなら相手選手に肘鉄かましちゃったりして。
ガンバにいた頃は、「ごめん、いくら岩下兄貴でもさすがに擁護できん」と何度か白目を剥いたものだ。全肯定はとてもじゃないけどできないが、全否定もできない選手であった。

基本的にガンバ大阪の選手は人柄がいい。まぁどこのクラブもそうなのかもしれないけど、とにかく人柄のいい選手が多い。その中でたまに思うことがある。
例えば若手や新加入選手に気を配るとか、他人に矢印を向ける形の人柄の良さって、岩下兄貴が持ち寄った部分も大きかったんじゃなかろうか。
何せ彼らは、なかなか大人しい上に、他人にものを申さないらしかった。チームには一人ぐらい、ダーティな部分を担う悪役が必要だ。2012年の夏に加入した岩下は、自分がそれになると覚悟した。
岩下のプレーは荒いが、素行が悪いわけではなかった。プロ意識や他者への気遣いも人並み外れて良い。外からはヒールに見えるのだろうけれど、プレー外はなかなか世間の目に触れないものだから。
鹿実の先輩、遠藤保仁には絶対服従。ゴリゴリの高体連育ち、34歳。彼を見ていると思ったりする。
結局、純度100パーセントの悪人なんて、滅多にいないのではないか。

怪我の多さに悩まされ続けた競技人生だったはずだ。Yahooニュースにリハビリの情報が上がっただけでコメント欄が世紀末になったことを覚えている。
世間様の風当たりは厳しかったが、どこのクラブでも来たら来たでいつでも愛されている。正確なフィードや競り合いの強さはもとより、気迫でボールを弾き出せるような『戦う姿勢』がいつでもファンを引き付けた。そんな岩下をファンはいつしか『闘将』と呼んだ。

岩下敬輔、悪役はつらいよ。
それでも、引退後にたくさんの労いの言葉が届くのが、岩下の岩下たる意味である。
でも、インスタの引退コメント『あっとゆう間』だけは正しい日本語使って欲しかったな。そういうところも実に岩下兄貴らしいのだが。
さらば、岩下敬輔。またいつか。

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