時間依存社会モデルver1.0(マクロ編:共感的組織)

★追記あり(2018年4月18日更新)

前項では、局所的被差別者に大組織が対応する方法として、主に古典的な独裁から現代的な人権までを述べた。本項では少し視点を変えて、人権を教義とする組織(小規模組織含む)が如何にしてその組織を維持するのか、そして組織を維持するための優先順位をどのように付けるのかを述べる。

5.人権と共感的組織

さて、本モデルにおいて、人権とは本質的に組織の全構成員に一定の独裁能力を付与する宗教である、と言うのは前項で述べた。そして独裁とは必ず戦闘で勝利する能力を持つことを指すため、人権を教義として持つ組織は、建前上は「戦闘を行った際、常に戦闘を行った二人が最大の効用を得る様に経過時間が分配される」ことになる。ところが、各人の自由効用係数は異なる値を持っているので、実際に戦闘を行ってしまうと「証明はできないが俺の効用はお前の二倍だから俺の為に二倍の時間を使え」というような不毛な争いが無限に発生する。そして、その不毛な争いはやがて実力行使となり、暴力による独裁能力の比較が行われることとなる。これでは人権の教義に反してしまう。

そこで、現実的かつ穏便な解決法として、互いに教化を行う事となる。しかし、組織内の全構成員の自由効用係数全てにおいて教化を行うのは長すぎる時間がかかるために現実的ではないし、そもそも教化には学習側に拒否権があるので仮に行う事が出来たとしても完全に自由効用係数を調整しきることは不可能である。

ここで権力の定義をしよう。本モデルにおける権力とは、「組織内の効用係数を個人である権力者が決定する権利」を指す。なお、古典的なモデルにおける独裁者はすなわち権力者でもある。権力者は、不完全な教化のなかで、大体皆がそれなりに満足できる効用を得る事ができるように、時間を配分することで自身の権力と組織を維持して最大の効用を得る。

さてここで、人権を教義にしたある組織における権力者の振る舞いについて考察しよう。重要なのは、不完全な教化状態で、大体皆同じような効用を得ることだ。勿論、皆の持つ自由効用係数の正確な値は不明である。だが、人権が教義なのだから効用を平等にしなければならない。極めて曖昧な調整が必要だ……ではどうするか?

一番簡単な、そして最も現実的な方法が共感を用いることである。ここで共感とは、「相手の効用を推測して自分の効用と比較する」ことを指す。……要するに、大部分の構成員に「多分私は他のみんなと同じくらいの効用を得ているだろう」と思わせれば良いのだ。確かに感覚には個人差があるものの、個人の時間を消費する能力は一定であるので、よほどのことがなければ全員にある程度以上の効用を与えることで「皆が何となく満足」という状態を作り出すことができる。これを「共感的組織」と呼び、外から見て上手くいっている組織は大体この状態である。共感的組織は、過剰平等にさえなっていなければ、組織内でそれなりの平等が長く続くことも担保されているので、組織としてはかなり頑丈である。

しかしながら、共感の力は「あいまいである」がゆえに発揮されるものである。何らかの問題が発生し、極めて正確に効用を計測するようなことになれば一瞬で瓦解してしまうだろう。言い換えるならば、「共感的組織」においては己の効用に関して、あまり口に出すことは得策ではないし、自他の自由効用関数について比べることはやるべきではない。

追記①:上記の理由により、得てして「共感的組織」はコミュニケーションもあいまいである。「私は何がどういう理由でこれだけ好きである」という会話が組織の性格上封じられるからだ。ともかく相手の効用をひたすら推測、そして尊重しつつ反射的に自身の意見を述べる技術が必要となる。

6.救済効用関数と救済落伍者

さて、共感的組織は教化と共感を駆使することで組織を安定させている。だが、時間は無限ではないので教化する順番は最大の効用を得るために熟慮する必要がある。そしてその性質上、共感的組織は組織内の経過時間の平等化の順番が教化によって得られる効用によって概ね決定される。即ち、「学習することによって高い効用を得られる効用関数」と「別に学習で高い効用を得られない効用関数」の二つの間では、前者の効用関数が先に学習によって平等化されるのだ。そして、ある組織が学習によって得る効用の差を並べた効用関数を、特別に救済効用関数と呼ぶ。救済効用関数は、組織内における平等化の実行順番を示している。つまり、ある効用係数が、救済効用関数の中では低い値を持っていた場合、その効用係数については人権を教義とする組織内においてはあまり平等化が期待できないことになる。

そして、救済効用関数が低い効用係数を用いることが個人の最適自由行動になる人間を「救済落伍者」と呼ぶ。救済効用関数は、権力者が平等化を推し進める上で最大多数の最大幸福をもたらすことに繋がり、社会の安定化に寄与するが、同時に効用を得られないので教化も平等化もできない「救済落伍者」を生み出してしまうのだ。

得てして、救済効用関数が低い人間というのは、「皆から嫌われる属性」を持っていることが多い。しかし、彼らは「被差別者」ではない。ただ、単にその組織の中では影が薄い……個人にも、権力者にも後回しにされているだけなのだ。「救済落伍者」でありながらも高い効用を得ている例としては、例えば犯罪をしながら逃げ切っている知能犯、のようなものが挙げられる。

最も、「救済落伍者」でありながら「局所的被差別者」であるという例は極めて多い。これは平等化が後回しになることによって、自身の効用が高まる前に、他の部分が十分に平等化されて組織全体では高い効用を得られるようになってしまいがちなことに起因する。大抵の場合、彼らは「救済落伍者」であるが故に組織には見えず、「局所的被差別者」であるがゆえに長期的に見て過剰平等を発生させるリスクを持っていることが多い。

(なお、ここでいう「救済落伍者」は白饅頭氏の提唱した「かわいそうランキング」のランキング下位の者に近い。ただし、「救済落伍者」=弱者であるとは限らない)

ありがとうございます。