次があるということ

 私は続編がない続き物の物語が好きだ。打ち切りとか絶筆とかネタ切れとか掲載雑誌の終了とか、そういう不慮の事故でもう続きが決して書かれないであろう物語には「かくあるはずだった世界への希望」と、「こんなはずじゃなかった現実」が見えるからだ。
 もちろん、実際には打ち切りを食らっているので次なんてありはしないのだが、打ち切りを食らうなんて夢にも思っていないまま広げた風呂敷をそのまま放置した痕跡に私は心が引かれるのである。

 次がある、というのは本来とても素晴らしいことだ。我々は、宝籤の一等に当たるよりは高い確率で隕石にあたって死亡する可能性があるのだ。どうすることもできない死の確率は常にゼロではない。
 誰もが次なんてない可能性を常に持っているのだが、普通の人はそんな死のことを考えて生きてはいない。そんな低いリスクのことを考えて何もしなかったり、生きるための行動をとらなければもっと高い確率で死ぬからだ。

 だが、そういった「死を考えずに生きていたのに不慮の死を迎えた」かのような唐突さを秘め、なおかつ普通に生きていても出会えるものはどこにでも転がっている。そういったものを見つめるたびに、私は人生の妙に感動し、そして散ってしまった可能性に思いをはせることにしているのだ。

ありがとうございます。