「やらない自由」と貧困の連鎖

 人類は分業を重ねて進歩してきました。今日、我々は様々なことに対して「やらない自由」を行使し、それによって得た時間を自由に使う権利が与えられています。しかし、分業には「やっていたら得られた経験」を得られないという欠点があります。

 文明の利器がない場合、「やらない自由」は存在しません。自分で衣食住を揃え、毎日の生活を送るだけで精一杯だからです。しかし文明の利器が揃い、分業体制が確立すると、衣食住を外注することができるようになります。

 これが悪いことでは無いですが、外注した衣食住には手間賃が掛かってしまいます。それだけではなく、「衣食住を得るためのノウハウが手に入らない」という副次的な問題も存在します。これらを失うということは、人生において「何かあったときのリスク」を高めるだけでなく、目利き力を失うことによる人生そのものの貧困を招きます。

 やがて、文明が発達すればするほど、様々な分野でより先進的な知識やノウハウを要求されるようになります。その結果として「一人では何もできない無数の専門家」が量産されることになります。

 そして、それらの専門家が専門家になる為に行使する「衣食住を作らない自由」や「他人との利害調整をしない自由」をまとめて引き受ける人間が登場します。このような人間は、実際に物資を動かすためにどこまでも豊かになり、同時に専門家の能力を買い叩きます。

 つまり、「自分では生きられない」人間はより貧しく、専門家の生存をまとめて引き受ける「生存を保証する」人間はより豊かになっていくのです。言い換えるならば、現代の貧困層の特徴は「自力で生活を支えるだけの能力がない」ことです。そして、その条件は現在は大部分の人間が満たしています。

 即ち、現代社会では発展と貧困と格差は全て連動しているのです。そして、それを加速させるのが自由です。

 殆どの人間は怠け者なので、自由を与えられるとまず「何かをしない自由」を行使し始めます。やりたい事だけやっていたいのはある意味では当然の願望です。

 しかし一部の人間は、彼らが蹴った「絶対必要だけど面白くないことをする自由」を行使し、手間賃という形で膨大な富を奪ってゆきます。それは「やらない自由」を行使した人間の命の値段を支える当然の対価とも言えます。

 これは個人の選択の自由の結果であって、何か不当な力が働いている訳ではありません。「リスクを取りたくない、責任も負いたくない」と願う沢山の人々が行使した自由により、一部の「皆の分までリスクを背負う投資家や社長」に全リスクと責任を負わせた対価が発生する。それが格差として現れているだけ、公正な結果なのです。

 現代社会は誰もが株式市場に参加できる仕掛けです。しかし、誰もがリスクを負いたがらないのも現代社会です。

 かつてのように血筋の良し悪しによってリスクを負う人間が厳格に決まっていたわけではなくなった故に、血筋の良い人間であってもリスクを投げ出してしまうことがあります。そういった人間は当然没落することになるでしょう。

 現代社会の格差と貧困は、自由の代償として生まれるのです。

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