コラム:情報の不可能性と宗教の意義

 月日が経つのは早いもので、もう3月です。本コラムは、下記コラムの直接的な続編になります。


 情報の持つ不可能性については前回のコラムで述べた通りです。情報とは比較不可能で公正不可能な存在であり、そして現代社会はその不公正を利用して発展している訳です。

 ここで「情報が比較不可能ならば、正しい情報とは何なのか?」という大きな問題が発生します。情報の正しさを保証するのは基本的に現実世界、もっと言えば物資への観測です。しかし観測では「反例が見つからない」とは言えても「正しい」とは言えません。

 現実世界を利用する場合、「正しい情報」の正しさは検証できても、正しさを保証する手段は存在しないのです。しかしながら、「正しい情報」は時に必要です。

 一人の小学生が「1+1=3」と覚えてしまえば、彼の足し算の結果は見るも無残なことになるでしょうし、その間違いの検証は無駄ではないにせよ大変です。

 更に酷いパターンとして、論理的・現実的に検証不可能な情報、例えば「鰯の頭には神が宿っていて信じる者は救われる」の様な情報を学んでしまえば、その情報に従った結果は全く予想不可能です。上記の例であれば、例え幸運に恵まれたとしても、鰯の頭を信じた結果の幸運かどうかは不明でしょう。

 問答無用で「それなりに正しいことが分かっている情報」を正しいものとして学習させることは、「無駄な検証を省く」という意味では極めて効率的なのです。情報の吟味には時間と関連情報が必要であり、時間は有限のリソースである以上、最初に信頼できる情報を得ておくのは特に初学者に取って大きなメリットがあります。

 しかし繰り返しますが、本当の意味で信頼できる情報は基本的にはこの世界にはありません。「正しい情報」とは「それが正しいから正しいのだ」というトートロジーめいた回答になります。加えて、人生を楽に送る為の様々な情報は基本的には互いに繋がりを持たず、下手をすれば互いに矛盾することすらもあります。

 そこで、初学者が覚えるべき情報には「論理以外の理由で正しさを保証する何か」が必要になります。これは論理を超越するか、情報の矛盾を許容する存在でなければなりません。

 教科書の内容は最新の科学的知見の上に成り立っているのでほぼ間違いないという事実と、読み手が教科書の内容の「正しさ」を素朴に信じるかどうかは別なのです。勿論、如何なる教科書を使っても、初学者の学習には前者のみならず後者を満たしていなければ意味がありません。

 これが、神の本質です。つまり、神とは


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