不幸体質と合理化の罠

 世の中にはアンラッキーな不幸体質の人間というものが割といる。「自分にばかりなぜか不幸が襲い掛かる」と一言で言ってしまえば、自分がそうだと思う人間も多いことだろう。だが、本当の意味でアンラッキーであるが故に不幸に陥る人間というのは統計的に見ると実は少ない。アンラッキーな人間の結構な部分は、自らの意思で不幸になることを選び取っているが故に不幸なのである。

 不幸になることで逆に心が落ち着くということがあるのだ。自分の心が満たされない理由として「他人と違って劣っている自分が嫌いである」という自己嫌悪を抱えている人間がそれである。この自己嫌悪はその人間以外の人間にとって一切関係がない。しかし、自己嫌悪を抱えている人間にとってはきわめて切実な問題である。

 この自己嫌悪を消し去るためには、正しく自己嫌悪を見つめて「己は無力だがゼロではない、何もできずとも何か始めることはできる」という形で昇華してやらなければならない。自分の認められない部分を受け入れ、自分で自分を救うことでしかこの自己嫌悪は消えることはない。

 だが、この無力な自分への自己嫌悪に向き合うことができない場合、人は何かに没頭し、自己嫌悪そのものを無価値化することによって自己嫌悪から逃れようとする。今の自分は無力ではない、無力で目立たない自分ではない。賭博でもゲームでも何であっても、自分は素晴らしい成果を出したのだから。こうして自己嫌悪は「認められない自分自身を見下す」という形で無価値化される。

 しかしながら、当然このような無価値化には対価を支払うことが必要となる。ともかく無価値化のためには成果を出さねばならないのだから、自分が即座にできない、或いは結果が見えていないことには挑戦しない。それは人生を進めるにおいて、無意味なことを行って時間を浪費することに他ならないからだ。たとえ自分自身を慰め、「認められない自分」を諦めるためであっても、である。
 それ故に、この無価値化は全く無駄なことをしながらも「それをするのが正しかった」「誰かの為にそうしたのだから」という形で合理化される。ただし、合理化されているとはいえ、やっていることは実際の問題を解決せずに本質的に無駄なことをしているに過ぎない。
 最終的にはこの合理化の対価を、合理化した本人をより「認められない自分」にする形で支払わなければならなくなるのだ。

 これが不幸体質になるメカニズムの根幹である。「認められない自分」を認めないために「認められない自分」に依存してしまう。その依存を維持するために、あえて自分が不幸になる選択肢を選び続ける。それは賭博に敗北することであったり、ゲームに課金することであったり、或いは酒やセックスや薬物といった快楽であったりするが、いずれにせよその本質は「認められない自分は不幸のせいである」という傲慢な思い込みを維持するためにこそあるのだ。

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