見出し画像

上田麻由子『2・5次元クロニクル2017-2020 ―合わせ鏡のプラネタリウム』、そして刀ステ「科白劇」について

本書は、2016年から2018年末にかけての2.5次元舞台を追いかけた『webちくま』の連載「2.5次元通信」が元になっている。そこに2019年・2020年の舞台と俳優・演出家のインタビューを増補したものだ。最後の章は、コロナウィルスの影響で「科白劇」に変わった刀剣乱舞の舞台。
クリスマス発売のこの本を手にして、最後の「科白劇」の章を真っ先に読んだ。観劇当日の様子が丁寧に描かれ(コロナ対策のために行われたことが、ひとつひとつ書かれ、上演のための努力と厳しい状況が切々と伝わる)、2.5次元には詳しくなく、「科白劇」もライブ配信を家で見ただけの私は、頁から伝わる真摯な想いに、そして、既に見たものがより強く、或いは形を変えて胸に響いて、切なくなった。そしてまた、少しずつ(半年かけて)読み進めて、刀ステシリーズや、俳優、演出家、他の舞台についても読んだ後で、また最後に「科白劇」の章を読み、ぼろぼろと泣いてしまった。

私は2.5次元の熱心なファンというわけではない。元々は、DVDや配信であんステと刀ミュを少し見たことがある程度。コロナ禍での刀ステの過去の舞台一挙配信で好きになった新参者で、科白劇でやっとライブ配信を見た。見たのは映像だけで、いまだ現地へ行ったことはない。
手に取ったのは、単純に上田麻由子さんの文章が好きなのと、刀ステにはまったからそれについて読みたかったという理由で、ここで扱われている舞台の殆どは映像すら未見だった(本書をきっかけに見たものも今ではある)。だから、それ以外の部分は読んでも楽しめるだろうかと思ったものの(多くは「原作」を知っているということを差し引いても)それは杞憂に終わった。舞台の紹介だけでもガイドとして面白いとか、台詞の取り上げ方の上手さー台詞そのものの魅力と、文章がピタリとハマるーなんかは勿論あるけれど、それだけではなく、普通ならこぼれ落ちていくものを丁寧にすくっているからだと思う。観客の息遣い、ロビーの賑わい(あるいは静けさ)まで、大事に描かれている。

元になった連載は「劇場に通ってそこで見たものを記録した」と前書きで書かれているけれど、それは決して「舞台の上のこと」だけではなく、舞台化が発表された時のファンの様子や、期待(時には心配)されていたもの、上演時の観客のリアクション、更に、そこがどんな劇場でどんな存在なのか、そして、その公演が2.5次元舞台のファンにとって、その作品のシリーズにとってどういうものだったのか、そんなことも書かれている。時には原作のファンにとってどういう年だったかまでの目配りまで(個人的には、京都国立博物館「京のかたな」展についても触れてあり、刀ステ「悲伝」が上演されたのはあの年だったのか!という感慨を味わえたことが嬉しかった)。
テニミュの代替わりが舞台上で行われた時の衝撃、うたプリやヒプマイの舞台化が発表された時の動揺、舞台の外にも広がる「2.5次元という物語」を知ることになる。筆者の言葉を引けば「2.5次元ほど、受け手の積極的な関わりを必要とする芸術はない」からこそのもの、という風にも感じた。


「ライブ・ビューイングや配信、DVD・BDなどパッケージ化された映像に触れることがずいぶんたやすくなった今だからこそ、そこからこぼれ落ちてしまうものをできるだけたくさん残しておきたいという思いを込めて書き留めたものもある」と前書きにあるけれど、まさしくその通りの本だ。たぶん、すぐにこぼれ落ちて、数年すれば探すことが難しくなっているものがここには書かれている。
だから、映像で観た何年も前の公演が、本書を読むことでまた捉え方が変わってきたりする。それに「当時のファンの様子」がありありと伝わってくる文章というのは、何かしらのファンである人間には、それだけで面白いものだ(例えそのジャンルをよく知らなかったとしても)。
また、そのジャンルを長年観測している者が気付く、作品に絡みつくハイコンテクストも。演劇に限らず、映画でも、アニメでも、小説でも、「それを作ってきた人」「演じてきた人」「見てきた人」、或いはジャンルにおける現象が、作品のある場面に重なる瞬間を目撃することは少なく無い。本書では、そんな「物語」が丁寧に書き留められている。

何かを好きになった時、リアルタイムで見たかったと思うことがある。それは毎回のことではなく、リアルタイムで見ていた人から「その時に見ていたからこその楽しさ」を聞いた時だったりする。
例えばアニメ「タイガー&バニー」。いわずと知れた人気作だが、私は放送が終了して少し経ってから見た。その面白さに興奮してネットを検索して、「始まる前はこんなに人気が出るとは想定されていなかったダークホース」「ネットの盛り上がり含めて楽しかった」というのを見て、てっきり最初から「覇権アニメ」と目されていたものだと思っていた私は、「それを始まりから追っていたファンはどれだけワクワクしただろう」と思った。悔しかったけど、それを想像して楽しんだりもした。でも、そんなネットの書き込みを見つけられなかったら、こういう想いさえ生まれなかったわけだ。
だから、こういう本は大事なんだと思う。

「ファンの息遣い」についてばかり書いてしまった気がするが、本書では「2.5次元前史」とでもいうような、「2.5次元」という言葉が生まれる前の、でも今のそれに繋がるルーツや歴史、そして、「2.5次元的な文脈を持つ、2.5次元に接続する舞台」までカバーしていて、そういった意味でも面白い。情報量も多く、筆致も抑制が効いたものだ。

本書はほぼ全ての章に「まぼろし」という枕詞がつく。それはこのジャンルが孕む「儚さ」を表すものでもあると同時に、それに対する反論でもあるのだと思う。(「「2.5次元舞台」というジャンルがたしかにあり、いまもここにあることのひとつのよすがに」という辺りは、2020年から激変した舞台をとりまく状況の中、一層強く響く)
そして、「2.5次元というのは観客ひとりひとりの頭の中に立ち現れる「まぼろし」」であるという「このジャンルならではの創造的な観賞のあり方」への賛歌なのだと思う。

けれど、最後の章では「まぼろし」という枕詞は使われない。
章タイトルは、「うつつの灯」『科白劇 舞台「刀剣乱舞/灯」綺伝 いくさ世の徒花(取り消し線) 改変 いくさ世の徒花の記憶』
この章がとりわけ熱を持つように感じられるのは、私がこの舞台を(配信ではあるものの)リアルタイムで観たことや、これがコロナウィルス感染拡大の影響でさまざまな舞台が中止に追い込まれた中での2020年8月の公演で、当初の予定からせりふとしぐさから成る「科白劇」に変更されたという非常事態、そればかりではないと思う。
ここには、演劇が晒された厳しい状況への悲痛な想い、舞台の上演に対する祈り、そして、舞台上の人物の台詞が物語の枠を飛び越え私たちに届いたあの瞬間を捉え、それをしっかり届けたいと書かれてるからだと思う。そのどれもが胸に刺さって、この章を2度目に読んでる間は、ずっと泣いているような状態だった。


私は、「科白劇」冒頭での「「こんな状況だから仕方ない」ですませることもたやすいのですが、しかし、人間の想像力は無限大です。きっと皆様方の頭の中では、マスクは消え失せたものとして、思い出に残ると信じております」という講談師の言葉が大好きだ。
けれど、筆者はその透明のマスクが言葉の熱を受けて白く曇り、奇しくもその存在を改めて私たちに思い出させ、歌仙兼定が「いまここで生きている」ということを伝えるものだったと語る。
うつつー現。夢や虚構ではない、いまここに、現実に存在している、私たちにとっての「灯(ともしび)」だと、筆者は綴る。これはこれで正解だ、これも好きだ、と思ってしまった。
歌仙は最後に審神者に語る。いまはやっかいなことが起こっている「西暦2020年」の「任務」にあたっている、それが終わればきっと本来の「特命調査」のあらましを話そうと約束する。主である審神者は、ゲームのプレーヤーであり、また、いま舞台を観ている私たちでもある。
私は歌仙役の和田琢磨さんのカーテンコールの言葉もすごく好きだ。それまで、舞台の後に(歌仙のように)歌を詠んでいた和田さんは、今回はそれをせず「僕は歌を詠む時を選びたいと思います」と言われた。これも観客に対する「約束」だ。
次の綺伝で初「刀ステ」現地鑑賞をするつもりの私は、歌仙の歌を楽しみにしている。

2021年7月10日読了(発売日2020年12月25日に購入したが、半年ほどかけて)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?