[Bookmark] 第10話 トマス・グラバー

スコットランド生まれのトマス・グラバーが、香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人として、開港後1年の長崎に着任したのは1859年。弱冠21歳でした。ほどなくグラバー商会を設立、幕末の激動の中、他の貿易商人と競合しながら、西南雄藩に艦船・武器・弾薬を売り込み、1860年代半ばには長崎の外国商館の最大手になります。

1867年には岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任。グラバーは後藤象二郎や新任の彌太郎をグラバー邸に招き商談に取り掛かります。坂本龍馬たちも出入りしていました。グラバーは貿易にとどまらず、事業にも進出。肥前藩から経営を委託された高島炭坑に英国の最新機械を導入し、本格的な採掘を開始しました。また同時期、グラバー邸のそばに薩摩藩と日本初の洋式ドックを建設。そんなグラバーでしたが、一攫千金を狙うようになります。ところがグラバーが肩入れした西南雄藩は鳥羽伏見の戦いで一気に勝敗を決し、大規模内戦はなし。グラバー商会は見越しで仕入れた大量の武器や艦船を抱え、雄藩への掛け売りの回収も滞り、明治に入った1870年、資金繰りに窮して倒産します。

しかしグラバーは、日本にとどまり、国際ビジネスの豊富な経験と多彩な人脈を活かし、ビジネスマンとして死ぬまで活躍します。高島炭坑は人手に渡り、間もなく官営化、後に後藤象二郎に払い下げられますが、石炭の国際取引に日本人は経験不足。グラバーは引き続き高島炭坑に地位を得ます。1881年、三菱が高島炭坑を買収。社長に次ぐ管事の立場にあった川田小一郎は言いました。「高島の石炭を海外へ輸出する采配はグラバー殿にお願いしたい。ただし炭坑の支配人である瓜生 震とは納得ずくでやること。また、取引状況については、支配人経由で毎月本社に報告願いたい」。グラバーは答えます。「岩崎殿にお伝えください。必ずや満足いただける結果を出しましょう」。グラバーは石炭の国際取引を巧みにこなし、彌太郎の期待に応えました。その後三菱本社の渉外関係顧問に迎えられ、愛妻ツルと共に長崎から東京に移り住みました。

グラバーは彌之助、久彌にも、主に技術導入など三菱の国際化路線のアドバイザーとして仕えました。キリンビールの前身ジャパン・ブルワリーの設立にも参画。1908年には、明治維新に功績があったとして、外国人としては異例の勳二等旭日重光章を受章します。グラバーはまさしく19世紀の冒険商人。ロマンあふれる人生を送ったのでした。

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