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仮想会見、ガーシーの現代版「古語拾遺」

ガーシー参院議員 15日 除名リアクション (除名は憲法違反で国民への人権侵害

ガーシー議員が懲罰委で〝捨てゼリフ〟「有権者に謝罪して欲しい」「無駄な選挙もいらん」浜田議員が代読 よろず~ニュース / 2023年3月14日 12時29分

 参院懲罰委員会(鈴木宗男委員長)は14日、政治家女子48党(NHK党から党名変更)のガーシー参院議員(51、本名・東谷義和)を除名とする懲罰案を全会一致で採決した。
 この日はガーシー氏の申し出で、同党の浜田聡参院議員(45)が代理で弁明した。浜田氏は「除名は憲法違反で、国民への人権侵害。除名ではなく、国民の選挙権によって罷免されるべき」などと主張。最後に一人称が〝オレ〟になったガーシー氏の関西弁丸出しの弁明を、約10分間にわたって代読した。
 ガーシー氏は書面で「立花元党首より、帰国せず登院せず議員をやれると言われ、登院しない旨を公約に30万近くの票を集め当選しています。確かに国会に出るのが義務だと言われると、立花元党首がオレに言った誘い文句は何だったんだと疑問の念にかられます。立花党首はオレを巻き込んだ責任をとって党首を辞められました。私が国会に行かないことの責任を含めてやと思ってます」と弁明した。
 続けて、
「除名というペナルティを課せられるのなら、オレが30万人近くに言った公約は、160人ほど(参院定数の3分の2に相当)の方々の意見によって反故にされる。もちろん、私も票を入れてくれた有権者に謝罪しますが、あなた方も私に票を入れた有権者に謝罪して欲しい。それが筋だと思います。民意を無視し、たった160人そこらの人たちだけで30万人の民意をないがしろにするんですから」、
と注文をつけた。
 ガーシー氏は「これからオレみたいな人たちが立候補すると思います。あなたたちが作った世界を壊されたくないのであれば、きちんと最初から立候補の段階で排除してください。何の決まりもなく、当選してからごちゃごちゃ言うのは後出しじゃんけんですよ。名札を上げてすぐ直帰する議員、居眠りしている議員をオレと同じくまったく登院しない議員への懲罰を希望します」と強調した。
 「長くなりましたが、野党の皆さんにひと言」としたガーシー氏は「あなたたちは永遠に自民党に勝てない。顔色をうかがいながら、オレのように除名されないことに必死になるでしょう。それを民主主義というのなら、最初から野党などいらない。自民党の属党になれば無駄な選挙もいらんし、オレみたいな不純物は生まれないでしょう」と野党に矛先を向ける。
 ガーシー氏は最後に「短い期間でしたが、どのような結果になろうとも従いますが、受け入れることは永遠にないと思っていてください」と、意味深な言葉を残した。(よろず~ニュース・杉田 康人) 全文掲載

これを弁明ととるか

一応、本人の弁明?を訊くのは筋でしょう。ただ、既存メディアは冷ややかな対応で、それみたことか的な「すて台詞」付き、みたいな対応でした。
そのことが、ガーシー(東谷義和)に対する総合判定ではないかと、私は分析しました。

今回の騒動は、政治なのか動画SNS人気奪取なのか、分別は尽きませんが、そのいずれ、であったのでしょう。
それで、これを機会に「若者の政治参加」が、啓蒙促進されたかといったら、ほとんどなかった、というのが実態なんでしょう。

穿った捉え方をするなら、そうして「体たらく」を演じてくれれば、保守党体制は盤石であり、さらに強固な党内結束が約束される、という、いつものセオリーへ戻るという話しです。

ええ所詮それは「井の中の蛙」井戸端会議ですから、アメリカSVB(シリコンバレー銀行)が破綻したとか、イランとサウジが国交再開で結託したとか、それでイスラエルが狼狽したとか、所詮井戸の外の話しだし、興味ないな~、という寸法でしようか。何しろガラパゴスにほんですから。

807年「古語拾遺」から何を学ぶか


大同2年(807)斎部広成(生没年未詳)撰。祭祀をめぐって対立関係にあった 中臣氏との争いの中で排除されている現況を、古伝承から説き起こして、朝廷に愁訴した書。
卜部本系と伊勢本系の2系統の本があるが、本書は前者の1本。この系統の最古の写本は 卜部兼直が嘉禄元年(1225年)に書写した嘉禄本(天理図書館蔵)である。 本文庫本は、永正11年(1514年)の卜部兼満の奥書までを持つが、 「満」字は「-」を擦消して、その上に墨書したもので、室町末期の書写である。 原装渋引表紙、縦28.0cm、横22.0cm。本文と一筆の傍音訓・送り仮名・合符がある。 なお、嘉禄本複製(便利堂 1941.12)の鈴鹿三七氏解説は、池上禎造氏の教示を受けており、 国語学的に注目される事象の指摘もある。

古語拾遺(こごしゅうい)は、平安時代の神道資料である。
官人であった斎部広成が大同 (日本)2年(807年)に編纂した。全1巻。

807年(大同2年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もある。だが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け…宝暦惟新に」とある。たった今、天子の運命初めて、このことから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同元年)5月18日以降であることが分かり、「大同元年」説は誤りということが分かる。
『日本後紀』の大同元年8月10日の条に「以前から続いていた「中臣・忌部相訴」に対する勅裁があった」とある。この条文から、「大同元年」論者は、『古語拾遺』をこの勅裁に先立つ証拠書類だと考えた。
しかし、本文にはこの8月10日の出来事を前提に書かれているので矛盾することとなる。
斎部広成の伝記は、『日本後紀』の808年(大同3年)11/17の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかの事は分からない。ちなみのこの昇階は、平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。
ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。

目的 愁訴陳情書説
元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族だった。しかし、大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏(藤原氏を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)が政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。本書は、斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであると考えられる。
調査報告書説
「愁訴陳情書説」が古くから唱えられていた。現在では、朝廷が行なった法制整備のための事前調査に対する忌部氏の報告書であるという説が有力である。
伊勢神宮の奉幣使の役職をめぐって、忌部氏と中臣氏の間で、長年争われてきた。
大同1年8月10日に忌部氏に対する勝訴判決が出ている。
本書が上程された大同2年2月13日は、この判決の後である。
「勝訴」のあとに陳情を出すのは不自然なことから、「愁訴陳情書説」は説得力を欠くことになる。

時の天皇である平城天皇は式(律令の施行規則)を制定する方針をもっていた。
本書の跋に「造式の年」とあり、14年後の嵯峨天皇820年(弘仁11年)4月に『弘仁式』ができている。
このことから、造式のための調査報告書だった可能性が指摘されている。
また、同時期には『延暦儀式帳』が伊勢神宮から提出されている。
これも造式に備えた事前調査の一環だったといわれており、『古語拾遺』と同じ一連の流れに沿ったものだと言われている。

序本文
神代古伝承
神武天皇以降の古伝承
古伝承に抜けた11カ条
御歳神祭祀の古伝承

天地開闢 (日本神話)から天平年間(729年~749年)までが記されている。
古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏に伝わる伝承も取り入れられている。
斎部氏はアメノフトダマの子孫とされている。
このことから、天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記されている。
例えば、岩戸隠れの場面においては、天太玉命が中心的役割を果たしている。
『先代旧事本紀』『本朝月令』『政事要略』『長寛勘文』『年中行事秘抄』『釈日本紀』や伊勢神道の文献などに利用・引用された。
神典として重視されてきたことがわかる。

研究
1773年(安永2年)に奈佐勝皋(かつたか)が『疑斎』を著している。
その中で『古語拾遺』を「斎部氏の衰廃を愁訴したるに過ぎざるのみ」と批判している。これに対して、本居宣長は『疑斎弁』を著して、『古語拾遺』を弁護した。
近代以降では、1928年(昭和3年)に津田左右吉が『古語拾遺の研究』で執筆当時の歴史史料とはなるが、記紀以前のことを知るための史料としては価値がないと評価している。
これまで記紀と比して重要性は薄いとされてきた。現在では重要性が再評価されつつある。
[English Translation]



以上は、学術的資料分析だが、現代語訳を読むと、われわれの「氏」
一族が、実際、政権主軸にあるべき伝統と系統にあるのにも関わらず、「大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏(藤原氏を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)が政治的な力を持ち、祭祀(今の政治)についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。」。

そのことへの怨み節であり、ときを経て、東谷義和氏が仮想弁明(上記記事)の内容は、時系列ではシンクロしないが、云っていることは、ほぼ同質のものと思われた。

日本音階「黄鐘」ラ音 シルクロードで東西音楽にわかれた理由

昨日(過去記事)はすっかり西洋音楽の解説に終始してしまって、いささか私としても心地よい疲労感を味わった。というのも当事の若い頃を思い出し、日本社会を席巻していた「ビートルズ」の数々のエピソード記録も箪笥の下の敷き紙のファイルにもぐっていた。(1966年6月30日から7月2日にかけて東京・日本武道館で公演)(この伝説公演コンサートをライブで観たファンも数えるほどしかいなくなった)。

いまにして回想すれば、それは画期的なことで、また、「武道館ライブ」というのも日本の音楽シーンで新機軸のアプローチではなかったかとおもう。その当事、自分も若かったこともあって、「ビートルズ」旋律のメロディーが、どの程度優れていたか、という学術的な知識もまったくなく、ただキャーキャー(圧倒的少女パワー)騒ぐ黄色の声に圧倒され、その強大なバイアスに社会全体が引きずり回された、というのが実際だった。

※その、どうしてそれが「黄色」(キャー)なのか調べてみた意外な 結果。

古典邦楽12音階の基音ラを黄鐘おうしきといい、それからきていると思われる。したがって「ビートルズ」が帰国した後も、それがなんであったのか、まったく自覚もなく、レコードを頻繁に聴いたという記憶もない。
もっとも、レコードを回すオーディオ機器にいたっては、金持ちの道楽がたしなむ高額趣味範囲で、中高男子(女は騒ぐだけでミュージシャンにはならない、湯川れい子は別)が手の届く場ではなかった。それでもエレキギターだけは持っていた、というアンバランスは説明のしようがない。

「音の世界」については、随分と探索した。もともと古典芸能に興味があり、地元の神楽演奏にたずさわっていたことも関係して、自分の演奏してる笛の音と、ビートルズが弾くギターの音は、理論的に、何が違うのか、という基本を調べはじめたのは、つい最近のことだった。

そうしているうちに、自分だけでなく、ちょっと前の昔の人も、その疑問に捉われて、膨大な研究書籍を書き残していた。その大家が「伊庭孝」であり、民俗的な音と態様とその伝承物語を文書化して、冊子にまとめた「遠野物語」柳田國男などがいた。

今日は、その話をしようとおもう。昨今、そうした「生活民芸的」な話はネット上に散見するが、では実際にそのような生活を体験できるかといったら、殆ど皆無といっていい。
また日本の国勢的な事情も絡んで、地方田舎の過疎化、快適な生活が望めない不便な田舎を捨て、都会へと人が移住しているという実態が拍車をかける。
おそらく、この場で、そうしたことの打開策(地方創生)をいったところで、まったく効力はなく、大きな潮流は「人知のおよばざる領域」として止めようがない。

~古典音階下記詳細~ b0050130_2316105

ガムランは日本音階のルーツ

五つの各調子は和律名で曲を現す基音の音程を表記したものである~
壹越調は中央で土、
盤渉調は北の玄武・冬・黒、
双調は東の青龍・春・青、
黄鐘調は南の朱雀・夏・赤、
平調は西の白虎・秋・白、を用いて方位ごとに音程を現している。

「日本音楽概論」伊庭 孝著  
伊庭 孝(いば たかし、1887年12月1日 - 1937年2月25日)日本の俳優、演出家、作詞家、音楽評論家である。佐々紅華、田谷力三、藤原義江らとともに「浅草オペラ」を築き上げたことで知られる。1887年(明治20年)12月1日、東京市に生まれる。伊庭想太郎の養子で、幕末の幕臣伊庭八郎の甥にあたる。東京府立一中時代には谷崎潤一郎らと同期だった。のち天王寺中学に転じて同志社神学校(現 同志社大学)に入学するも、高畠素之、遠藤友四郎らとともに学内で社会主義を唱え、1年半ほどで中退する。

1912年(大正元年)10月、24歳のとき、上山草人らと「近代劇協会」を設立、有楽座での旗揚げ公演はイプセン作の『ヘッダ・ガブラー』、翌1913年(大正2年)3月、帝国劇場でグノー作のオペラ『ファウスト』を上演、オーケストラの指揮は竹内平吉が執った。

 1月1日続編をここで書き改めるにしよう。副題で新曲「春の海」1886年-1887年、としたのは、古いがゆえの一巡めぐりの新しさと、その後継者たちに多大な影響を与えたであろう、両者にスポットを当ててみた。
 筆頭が山田 耕筰の1866年、次の年の伊庭 孝1887年である。伊庭に関しては、これまでブログに書いてきたが、山田 耕筰については、殆ど知識がなかった。今回あらためて資料を集めて知ったのが伊庭の1年先輩であったことだ。
 この両者の関係については、交流があったという記述はどこにもないので、面識はなかったと思われるが、どちらも職業音楽の範疇にいて、ましてや1年違いと云う年齢からして、どこかで接触はあったはずだ。
 しかし、ここで進める話は、それとは異なるので、これ以上は詮索しない。とりあえず伊庭孝について語るにしよう。

伊庭孝の話 
 伊庭孝は1887年(明治20年)12月1日、東京市に生まれる。伊庭想太郎の養子で、幕末の幕臣伊庭八郎の甥にあたる。 
 伊庭孝による『日本音楽概論』は昭和3年9月18日に発行された。1928年のことである。翌年の1929年には近代史上でも歴史に残る世界大恐慌が始まっている。今から84年前のその話しは現代の生活スピード感覚から見ると紀元前の出来事に思ってしまう。その時代に伊庭孝は紀元前から始まるギリシア以来の西欧音楽をしっかりと見据えていた。
 http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/d3a20727e439cd0ee2e558ef3b2e9a13


古語拾遺朗読



16\ YouTube 動画リンク「オールドサウンド古典」神楽笛とmeta


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