見出し画像

じぶんは何人なの?

日本にいると日本人がニホンであることを意識しない

形而上の話しではないとして、「あなたの国籍を教えてください」(街録で咄嗟に質問されそうな問いだ)・・・

というのは、このnote会員の発信元をみると海外組がけっこう多い。それで判りやすいのは、海外だからといってガイジンがこのnoteにメッセージ、ではなく日本人が日本語で、日本人に語りかける、というスタイルであり、それは隣の「幸ちゃん」と「福ちゃん」が挨拶していることと何ら変わりない。それで何か問題があるかとったら別に問題はない。ではその提起は何かと問われたら、答がない提起で、「幸ちゃん」と「福ちゃん」の関係は、来月にはアメリカとインドネシアの交信記録になる可能性もある。またそうなったとしてもまったく問題はない。ま一部では誰が何時、どこにどんな理由でインドネシアに移住したか、という記録はサーバーに記録はされるだろう。

日本文化の古典「日本の神楽」・を考える              画. 風神安鎮 (ふうしんあんちん)神楽面

 神楽、そのシナリオは「古事記」であったり「日本書紀」に書かれているもので、後はそれをいかに演出し、振りを付ければよかったのである。二千年前とは言わないが、おそらく千年単位で完成しているはずでの歌舞。それが現在まで伝承されてきた。それは非常に稀有なこと。
 
 紀元前の神話の世界、その神話物語を現代の世に、神社境内の神楽殿で行われている世にも不思議な遊戯の神楽が、目の前で展開している様は、まさしく桃源郷の世界と比喩してもさしつかえない。
 
 日本各地にある神社の祭りには必ず神に奉納されて演奏する。それは気軽にタダで観賞できるのは特異である。ところが余りにも当たり前に神楽奉奏され、悠久の歴史がある神楽に誰もそのことに気付かない。もちろんその内容については時の隔たりが激しく、理解する余地がまったく無い。
 今でも健在な神楽だが現在のスタイルの神楽が出来上がった経緯を理路整然と説明するのは難しい。この神楽の伝承系譜を調べるには古代日本の歴史を幅広く広範囲に総括する必要がある。 
 古文書より神楽に関する伝記を捜し出す事は滅多にない。研究者によると神楽は、ある時代において修験者によって行われてきた、という有力な説が云われているが、それを裏付ける確かなものはない。しかし、それ以外の方法論が考えられないとすれば修験者説は、にわかに信憑性をもつと考えた方が都合がよい。

 そこで神楽の詳細についてネット検索すると確かな文献資料があったので参考にしたい。
--- 「猿楽」とは、平安時代から室町時代にかけて流行した日本の芸能である。そして、それをもとに室町期に観阿弥・世阿弥らによって確立された芸能で1880年までの名称とされている。
  演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。猿楽という言葉は散楽の転訛したものである。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。猿楽は本来神楽だから、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しい。
 奈良時代では中国大陸から、散楽と呼ばれる芸能集団が移入されたのが猿楽のはじまりと考えられている。
 散楽の具体的な内容は史料が少ないためにはっきりしていないが、正倉院御物の「弾弓散楽図」などから推測される限りでは、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った。
 平安時代に至って、延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていったと推測される。
 この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。
 当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。
 これらの実態の一部は『新猿樂記』「東人之初京上(あずまびとのういきょうのぼり)」「妙高尼之襁褓乞(みょうこうあまのむつきごい)」のように記録されている。
 また同史料には、咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、咒禁道の影響を受けた儀式を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが翁猿楽へと発展したのではないかとの説もある。
やがて庶民の人気を得ていくうちに、座を組織して公演を催す集団も各地に現れ始めた。
*注 咒師作法(しゅしさほう) 咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱えるなど、密教的な儀式である。鈴を鳴らして四方に向かって四天王を勧請するのもその一環である。 --- 提供 (ウィキペディア)

 神楽や歌舞について旋回動作を基本とするのが「舞い」で、神迎えに跳躍動作を基本とするのが「踊り」であると、神楽舞の微細な部分を考証しているのは、西角井正大氏(実践女子大学美学美術史学科教授)である。
 神楽の舞はグルグル回り、そして反回り、大回り小回りと旋回の繰り返しで、その間にサイを切る所作がある。サイ切りと旋回の舞いの神楽と は一体何を意味しているのだろか。シルクロードは西と東を結ぶかつてのハイウェイであることはいまさら云うまでもない。
 
 中央アジアの新疆ウイグル自治区のウルムチ(鳥魯木斉)、そのオアシス都市にペルシャ系の人々が住みついたが、時代が移ると、やがてトルコ系のウイグル人によってイスラム社会に変わる。ウルムチは中国から西に向かう鉄道の終着の地名で、由来は険しい坂道と無骨で強気の意味を含む。その地で「胡旋舞」という伝統的な古い舞がいまだに残っている。
 この「胡旋舞」は旋回を基本とする舞で「胡」は西方を指す。土地の人は子供の頃から胡旋舞に慣れ親しみ、それは地元住民の「クチャ歌舞団」によって今でも舞われていた。
 その「胡旋舞」を神楽の基本的旋回舞と短絡解釈するには考証が不足するが、「旋回動作を基本とするのが舞、神迎えに跳躍動作を基本とするのが踊り」とする西角井説を補強するに足る。
 氏によれば、「旋回動作を基本とするのが舞いで、神迎えに跳躍動作を基本とするのが踊りである」と、神楽舞の微細な部分を考証している。神楽の舞はグルグル回り、そして反回り、大回り小回りと旋回の繰り返しで、その間にサイを切る所作がある。サイ切りと旋回の舞いの神楽とは一体何を意味しているのだろか。
 旋回動作と、サイ切りの神楽は儀式的でありまた形式的でもある。そのことについては、「修験道色の強い演目として四季と土用の所分けを物語る王子物や方位鎮めを骨子とした五行物が普及している」とする。
 陰陽五行思想は東西南北の方位に対して呪術の考えがあり「方位鎮めの呪儀」は理にかなっている。その陰陽五行思想も取り込んでいる修験道は神楽の発祥起源において重要な意味を持っていた。
 修成講社、後の神道修成派が「我国は神国たり」として修験道場に入りこみ国家神道へのシフトを画策している。
 加持祈祷的に密教と主体を共有する役小角の系譜による修験道が結合、さらに儒教・道教・陰陽道なども取り込み神仏習合を更に複雑なものにした、と西角井氏は説明している。
だか、「神楽は神々と共に歩んだ歴史であり、江戸の里神楽は記紀神話の一部始終を仕組み、67座にも発展したところもあった」と、伝承神楽の複雑さを露呈している。
 神楽の語源は「神座の訛訓」というのがこれまでの定説である。「楽」は鎮魂の意味の古語「アソビ」であるという。宮中の御神楽に較べ現存している里神楽の後発性が記紀神話との密度を現すが、江戸里神楽の動向も研究対象にあたいする。      

民音シルクロード音楽の旅の歴史・ 藤田敏雄インタビュー                     砂漠の道「オアシス・ルート」の民族舞踊は敦煌の壁画にも描かれた「胡旋舞」のようにクルクル廻る旋回舞踊が主流で、西はトルコから中央アジアを経て東は朝鮮半島まで広範囲にわたって分布しています。

 一方草原の道「ステップ・ルート」の騎馬遊牧民のダンスは、乗馬の上下動を思わせる躍動的なステップが基本で、中国では「胡騰舞」と呼ばれています。

 この「胡旋舞の道」と「胡騰舞の道」の系譜を私は民音の文化講演会で映像を見せながら発表しましたが、これは日本はもちろん、世界でも前例にない試みでした。

 それから日本人にぜひ認識してほしいシルクロードは「ブッダロード」。いわゆる「仏法東漸の道」です。実は日本の音楽がこの「ブッダロード」を通って渡来したからです。
 
 その物的証拠が奈良の正倉院に保管されている「亀茲琵琶」などの古楽器で、聖武天皇の御代に営まれたあの大仏開眼供養ではなんと60人の楽人が演奏したという記録も残っています。
 
 1000年も前に60人のオーケストラが編成されたのですからビックリしてしまいますね。
 民音のシルクロードシリーズは、そうした音楽文化の起源を探る上でも大きな功績があったと思います。

***

じぶんは何人なの? という問い 

上記、歴史的文物について語ったが、これを半分いや3分の1理解できるものはいないだろう。先日もある人に「皇紀2679年」と書いたら即「日本会議」と返された。大筋間違いはないが、神道崇拝者だったら、一律、それで納得するが、それ以外の人間だったら「日本会議」と早合点するだろう。すなわち、日本の歴史が正しく勉強されていないという証左になる。否、「皇紀2679年」が正しいといっているわけではなく、神武天皇(仮想神)が誕生したのが、その年代だ、と彼らは主張している話しだ。もっと勉強すれば、その時代のギリシアには、タレスやアリストテレスやピタゴラスが存在して、地球規模で考えたら、その紀元前5.6世紀に人間史上一大改革があったことが類推できるのである。                        記述内容は古典芸能音楽の伝承経路をかいたものだが、それを判りやすく云えば、今の西洋音楽のラップであったりジャズであったり歌劇であったり、それが日本を席捲しているという話しだ。「雅楽」にしてもまったく同じで、当時の先端流行音楽で、それを「聖徳太子」が奨励して祭りのときに演奏したらどうか、という記述まで残っている。また、それを学ぶために「遣唐使」を送ったという史実は有名な話で、「吉備真備」という高級官吏(頭脳明晰IQ130以上)が、唐(古代中国)の文献を翻訳しながら、膨大な音楽体系関係書物を手書きでコピーするという気の遠くなるような仕事をして、無事日本に戻った。おそらくもし、その船が難破して学術書が一緒に沈んだとしたら、いまの古典音楽は、違ったものが演奏されているという、ことが予想される。                               私が今やっている動画編集など、音楽編集も交えて、数種類の編集ソフト「アドビ」など使ってやっているが、ずべてパソコン仕様でデジタル処理されている。そのソフトだけでも高額であり、手間も時間もかかる。それとほぼ同じことを1400年前に「吉備真備」は手書きでやっている。そんなことを考えたら、その優秀さに頭が上がらな。              そうした逸話は、勉強しないと判らないことで、15日の2.26事件の極秘資料発見ではないが、埋もれている情報を探し出すには、その予備知識も必要で、何もない砂漠を100メートル掘ってもなにも出てこないのと一緒だ。

いまこのネットSNS時代にあって、そうした歴史が語られないのは時代趨勢として止む得ないが、それを知らない者が日本中に溢れているとなる、いささか心配になる。                    

「古語拾遺」(こごしゅうい)という古い古文書がある。「斎部広成」が大同2年(807年)に編纂したもので、忌部氏(斎部氏)の報告書として書かれたものであった。                           その名の由来、「古語の遺たるを拾う」という意味で、「これだけははっきり云っておく、でなければ死んでも死に切れない」という怨念のこもったまさに名著である。いまでも出版されているので是非読んでいただきたいとおもう。

■いろいろ説明したが、じゃアンタ何人なの???という質問攻めを喰らいそうだ。そうした疑念は過去もある。アンタなにやってんの?という問いだった。そのときも解答していない。だから今回もしない。         敢えていうなら・・・昔若かったころ女と渋谷に住んでいて、もう一方の双子の姉妹、妹女が流行の学生運動に染まっていて、その姉から「止めさせーて」と懇願されたので4.5畳事務所に一人で行ったら5.6人の男に言寄られて拒否したら殺られそうになったので以来、その姉妹とは縁を切った。

その程度です。ああ昔はよかった、ー生きていてー。

#noteクリエイター #考察コラム#ビジネスモデル#お金を稼ぐ#発想
#アップデート #競馬コラム#asuka#北里明日香##経費削減#特許事務所
日記#エッセイ#コラム#小説#ビジネス#ブログ#note#仕事#読書
#ライフスタイル #フリーランス#就活#転職#プログラミング#移住
#田舎暮らし #就職#エッセー#ノマド#資本主義#公務員#スローライフ#働きたくない#リゾートバイト#リゾバ#ビジネス#仕事#毎日更新#毎日note#ライフスタイル#フリーランス#副業#お金#働き方#幸せ#経済#私の仕事#ネットビジネス#仕事術#弁護士#行政書士#税理士#社労士#司法書士#弁理士



黄金を運ぶ者たち インド編1 シェアハウス案件①                                          真田正之 2019/08/17 19:08

「キャッチかぁ」
 僕はスマホの時計を俯いて見ながら小さく呻いた。
「そうですよね。到着からもう二時間」
 西野は溜息混じりに答える。普段感情を表に出さない彼女にも、はっきりと疲労の色が見えた。
 その日は清清しい秋晴れとは言いがたい、淡い曇り空の一日だった。品川駅新幹線改札口の目の前にあるカフェでのテーブルで、男女二人が暗い表情で、溜息をつきながら小さく呟く様は、すっきりしないその日の天候もあいまって、暫くの別れを惜しむカップルのようでもあるが、僕らはカップルでもなければ別れを惜しんでいるわけではない。気分は曇りどころか大雨だ。

 僕らは三名の新人ポーターが戻ってくるのを待っていた。三人のうち一人、陰気な女子大生だけはやってきて、彼女は渡す物は渡し、貰う物は貰って、俯き加減でそそくさとその場から消えていった。だがもう二人が現れない。もちりん連絡もない。二時間前に羽田に飛行機が到着していることはネットで確認済だ。状況から考えてキャッチされたことを受け入れる時間だった。

 フライトに不安要素はあった現れなかった二名のうち一人は女性で、彼女が今回のチームを組んだ。しかし彼女のポーターの募集方法は僕らの早々を越える拙さだった。後ろ暗いことは信頼できる人間にひっそりと伝えるものだと思うのだが、彼女はネット上オープンにポーターを募った。そうとは知らない運営チームは、面接をする前にスケジュールを組み、個別にトークアプリを使って連絡を取り合っている最中、具体的な仕事内容を知った一部の者が、犯罪だと騒ぎ始めていた。当然中止すべきだった。しかし「お金が欲しい」「稼ぎたい」という彼女の声に負けて今回だけということで、三人を送り出したのだった。

 この時彼女が声を掛けたのは(彼女自身もそうだが)月の家賃が二-三万のシェアハウス住人たちで、そこに一泊二日で十万という報酬を払うのだから、最終的に金銭欲で黙ると思ったし、使う飛行機の便名などは知らせていない状況だった。それになんとなくだが、シェアハウスに住む人間に対する侮りのようなものがあり、騒ぐだけで通報する気概はないだろうという考えがあった。しかしよくよく考えると、貧しい環境では、誰かの足を引っ張ることに劣情を燃やす人間も多いし、そういう者たちに絶好の大義名分を与えるようなものだ。僕らの判断は甘かった。
「まいったね」
 僕はコーヒーカップを口元に運び一口飲んだあと、届いた分だけは僕から利根川に渡しておくことを西野に伝えた。

「ありがとうございます」
 彼女は頭を下げてそう言うと、スッと席を立ち、これだけショックなことがあった割には肩を落とすこともなく、いつも通りのクールさを湛えてその場を後にした。
(強いなあ。彼女は)
 彼女も動揺しているはずだ、ただそれを表に出さないだけだ。そういう強さは僕にはない、それが羨ましくもあり、ビジネスパートナーとして心強く思えた。

※部分抜粋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?