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うさぎとカエルの漫画コンビが超人気?.2

外来は船でやってきた?

鳥獣戯画図の見事さは、別格でありそして圧倒された

よくある古い建築の屋根裏棟札とは別に、木片の落書きに、サブネームとか、墨書サインの筆記跡が発見されますが、その図は、京都市右京区の高山寺にあることは、知れていますが、一部国外個人所有になっていたり、幕府筋の美術骨董類とは、いささか趣のことなった見方をされていたようです。

と云うのも、三部作は寸断されて、所有者が異なるというのも珍しくて、また、コマ切れによって、全焼失を免れることもできたという絵でした。

当時(鎌倉伝)の人がそれを観て、なにを感じ取ったか判りませんが、昔も今も誰が見たって漫画(風刺)にしか見えないでしょう。
筆者が誰か、というのも謎で、寺の僧だという説もありますが、そうとも思えるし、バレたら打ち首だし、今のSNS同様、匿名が生きる道、と判断したのでしょう。

日本絵画は、古代中国「篆書隷書」と紙本空白に絵を書いたものが手本で、日本で独自の発展をした、というのが云われていて、作風も似て非なるもの、の部類でしょう。

また日本画の「松林図屏風」という国宝がありますが、時代は隔たっていますが、作風がよく似ている。
似ているというと語弊がありますが、サラッとたラフなタッチが似ている、ですから描いた作家の気骨というか、知性また高貴な性格があって、そこいらの輩とは一線を画していた、という人だったと思います。

ほとんど線画ですから、みよう見真似でおれだってできる、とおもわせる遊びとラフさがあって、高額絵、として虚勢をはっていない。

「松林図屏風」は、長谷川等伯、という江戸時代の画家が描いたものでした。

そして話は鳥獣戯画の中の、兎が何故白色だったのか、どうして野兎のブラウン(オール白黒画)じゃなかったのか。兎の引く弓を誰を狙っていたか、カエルが大笑いしてますが、何をみてしまって笑ったのか、知りたくなりますよね。

そんなことを思っていると、あの「国譲り」因幡の白兎が頭に浮かんだのです。
どうしてそれが兎だったのか、その渡った橋の部材として並んだのが「八尋ワニ」という獰猛な肉食獣ですから、どう考えても、環境シュチエーション設定が合わない。
しかし伝記伝説というのは、時代が変遷したある定型のスタイルがあって、それが稗田阿礼のような明晰者によって、語り継がれたナニナニ譚とかメソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』に登場するレバノン杉を守る森の番人。至高神エンリルに名を受け太陽神ウトゥにより育てられた巨人 (伝説の生物)。など、さもあったような話を、芝居で語り見せる(日本の神楽)スタイルです。
だから時間が経過すると、ドラゴンボールのような空中戦に発展するのでしょう。

その結果「国譲り」が締結されたのです。今では考古学発掘によって、新資料が発見され「ウンブキ」のように、縄文古代史を塗り替えるような、遺跡遺骨が出るかもしれません。

そして疑問ですが、国を譲る、とは即ち、城をけ渡す、領土奪取大量殺りく(それを知るシャーマンの知恵)される、女子供が略奪強姦雑交によって異種が生まれることであり、敵対する兵は処刑また奴隷となって、国土拡大のための傭兵となる。

それが紀元前からの戦国定型スタイルとすれば、今やっている中東紛争行為と、まったく変わらない。そうした伝記は、書かれていない。でも現在リアルを見れば一目瞭然なことです。

「なんと哀れなことでしょう。」か。

文明の勃興衰退にオンナでなくウイルスあり

スパルタに攻められ“3密”になったアテネ古代ギリシアの2大ポリス(都市国家)といえばアテネとスパルタ。
民主主義発祥の地であるアテネがスパルタに敗れた戦いがペロポネソス戦争だった。
戦争が始まった2年後の前 429年にアテネでは感染症が流行し、人口の4分の1と、傑出した指導者ペリクレスを失った。籠城戦を余儀なくされたアテネは“3密”になったのだ。
もしこの感染症がなかったら、アテネの急速な衆愚政治化やマケドニアの台頭はなかったかもしれない。

蚊にやられたアレクサンドロス大王その古代のマケドニアであるが、現在の「北マケドニア共和国」よりも南のギリシア第2の都市テサロニケを中心とする地域である。
前4世紀にアレクサンドロス大王は、東はインダス川に至る広域を支配したものの、マラリア(悪い空気)と推定される感染症により 30 代前半にしてバビロンで急逝した。蚊にやられたのだ。

マラリアといえば、日本でも平清盛、アメリカ南北戦争の南軍兵の半数、太平洋戦争時にルソン島、ガダルカナル島などで戦った日本兵の多くが犠牲になった。

感染症で衰退したローマ帝国
アレクサンドロス大王の後継者たちの王国群、いわゆるヘレニズム諸国家は大王の足跡と言っていい。
西はマケドニア(現在のギリシア北部)から東はインダス川沿いの現在のパキスタンまでの広範な地域。
だが、共和政時代のローマの軍門に下り、前27年から帝政時代が始まる。ローマ帝国の最盛期はいわゆる五賢帝時代(96 ~180)。

その領土は東はティグリス、ユーフラテス川流域のメソポタミア(現在のイラク)、南はナイル川流域(同エジプト)、西はヒスパニア(同スペイン)、北はブリタニア(同英国)にまで及んだ。
だが、五賢帝時代の末期にイランのパルティアの都市クテシフォン攻略の際に感染したウイルスにより、イタリア半島に住む人たちの3分の1が死亡。ローマ帝国は衰退へと向かい、395年に東西に分裂した。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では6世紀のユスティニアヌス大帝の治世の541年(543年説も)に、都市コンスタンティノープル(今のイスタンブー
ル)が最古のパンデミックに見舞われ、ピーク時には1日に1万人が死亡した。 以下割愛 (世界史講師 村山秀太郎)
https://joea.or.jp/wp-content/uploads/2020_12_016.pdf


古代史の鳥瞰図~

もし伝承が真実を伝えているとすれば、どのような歴史が浮かび上がってくるか。

縄文時代 壱岐・対馬(つしま)

縄文人は海外渡航を頻繁に行っていた。日本列島最初の王朝はBC2000年頃飛騨地方に発生した。飛騨王朝は全国に縄文連絡網を作った。シュメール人が渡来し、飛騨王朝の必要性を解く。全国にペトログリフを広める。

祭祀がストーンサークルからピラミッドに変化した。現天皇家は縄文系(飛騨国の直系)である。

縄文人は上陸してきた渡来人集団にマレビトとして入り込んでいた。素盞嗚尊はBC9年ごろ朝鮮半島を統一したと考えられる。どのようにして統一したのであろうか。

朝鮮半島の状況 朝鮮半島への縄文人の侵入

朝鮮半島の旧石器時代は12000年前に終わり、その後7000年前まで、人の気配が見られなくなる。人がいなくなったようである。
7000年程前に朝鮮半島南部に隆起文土器が出土するようになり、朝鮮半島に人が戻ってきたようである。

この隆起文土器は縄文式土器であり、縄文人が日本列島から朝鮮半島にこの時期にわたったことが推定される。
時期から判断して,7200年ほど前に鬼界カルデラの大噴火が起こっており,九州から避難した人々が朝鮮半島に上陸したのがはじまりと考えられる。この機会カルデラの大噴火を機会として縄文人は外洋航海技術を手に入れたのである。

北九州と壱岐・対馬は縄文式土器の変遷がほぼ同時期であり、壱岐・対馬と北九州は縄文人が頻繁に行き来していたことがうかがわれる。対馬の北端と朝鮮半島南端は65kmほどであり、壱岐と対馬の距離60kmとさほど変わらない。このことから、縄文人は朝鮮半島とも自在に往復していたようである。

このように朝鮮半島にはかなりの縄文人が住んでいたことが推定される、現在の朝鮮半島にすむ人々の中には縄文人と同じY染色体ハブログループであるD1bの存在割合が4%ほど存在している。D1bは縄文人独特の型であり、日本列島で誕生しているので、縄文人が朝鮮半島にわたって住んでいたのは間違いがないところであろう。


朝鮮半島に縄文人が多数住んでいたということは、縄文連絡網が存在していたと考えることができ、素盞嗚尊がそれを使えば朝鮮半島統一はそれほど苦労することはないということを意味している。

古代史の復元では、現韓国領域は当時の倭国であったと推定している。素盞嗚尊は数年であっさりと統一しているのである。

朝鮮半島への北からの侵入

6000年前ぐらいから朝鮮半島に櫛目文土器が出土し始める。この土器は中国東北部を主とする遼河文明が持つ土器であり、この地域の人々が流入するようになったと考えられる。

中国大陸で文明が発達し、争いごとが多く起こり、大陸から多くの人々が朝鮮半島に流入するようになってきた。この中で殷最後の王の紂王の叔父の箕子が国を作った。BC1126年に箕子朝鮮・BC194年に衛氏朝鮮が起こったが、両者は遼東にあったと推定している。国の位置

遼東の地は当時の殷の支配領域から遠く離れており、未統一地域であった。箕子が統一国家を作るのには適した場所と言える。一般的に言われている現北朝鮮領域は当時未開の地であり、統一政権を作るには不適と言える。

現北朝鮮領域はBC108年衛氏朝鮮滅亡後、漢四郡が一時期置かれていたが、経営が厳しく統治する価値もないということですぐに廃止された。中国東北部やシベリアの方から多部族が分散して住んでいる領域だったのであろう。それに対して現韓国領域は縄文人比率が高く、統一しやすかったと思われる。

統一状況

素盞嗚尊はBC12年ごろ、初めて朝鮮半島に足を踏み入れたと推定している。

BC15年ごろ素盞嗚尊は飛騨国ヒルメムチに会い、日本列島平和統一に協力を得ることに成功した。このとき、素盞嗚尊が縄文連絡網を使うことを許可したものと思われる。素盞嗚尊は平和統一には大陸の先進技術が必要であると訴え、最初の統一領域として朝鮮半島を提案したと思われる。朝鮮半島を統一すれば、そこを拠点として楽浪郡の先進技術導入が容易になり、その先進技術を示して日本列島内の各地域を統一しやすくなるのである。

この当時、朝鮮半島は統一組織は存在せず、少人数がばらばらに生活しているという状況だったと思われる。このような状況では、これらの地域の人々は先進技術に触れることもなく、特に農業技術は必要不可欠なものであったに違いない。神話の天の岩戸が起こる直前の高天原(朝鮮半島)での素盞嗚尊の乱行はこの農業技術の開発を示しているのではないだろうか。

後の時代の統一とは異なり、統一する素盞嗚尊一族の方も組織化されておらず、伝承には伝わっていないが、飛騨国から派遣された縄文人と出雲の協力者を引き連れて朝鮮半島にわたっていると考えられる。

統一側が組織化されていないために、統一後の朝鮮半島に支配者はおらず、先進技術の交易ルートを作った程度ではないだろうか。そして、連携のために定期的に訪問するようになり、人々の交流が始まったと考えられる。

朝鮮半島は現在では日本ではないので、その伝承の相当部分が失われている。わずかに残った伝承でつないでみよう。

漢四郡

BC108年、 漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置いた。ところが、BC82年には 真番郡、臨屯郡を廃止し、BC75年には玄菟郡を西に移し、実質、楽浪郡だけとなった。なぜすぐに廃止したのであろうか。

古代史の復元では楽浪郡は遼東地域、真番郡は現北朝鮮領域西側、臨屯郡は現北朝鮮領域東側、玄菟郡は現北朝鮮領域北東部と推定している。その南の現韓国領域は縄文人が主流の地域であった。真番郡と臨屯郡は26年ほどで廃止されている。玄菟郡も33年ほどで実質放棄しているのである。

漢四郡は現在でいうところの植民地である。周辺諸国より資源・労働力を奪取するのが目的である。一説には住民の抵抗があったと言われているが、この領域にそれ程の組織力があったと思われないし、もしあれば、漢が実力行使して滅ぼしていると思われる。わずかな年数で放棄するということは、統治するメリットがなかったと考えるほうが自然である。

人口密度が低いことに合わせて、住んでいる人々に漢が欲するような技術や資源がなかったということである。現韓国領域も似たような状況であったが、南端部は縄文人が数多く住んでいて、日本列島の渡来人(弥生人)たちも住んでいたようであるが、漢から遠いので漢の統治対象ではなかったのであろう。そのため、現韓国領域は政治的に空き家のような状況であったと判断される。

素盞嗚尊の朝鮮半島統治は資源の奪取が目的ではなく、人々の裕福で平和的生活にあったと思われるのでこのような地域の統一が可能であったのだろう。

素盞嗚尊は,次に,朝鮮半島南端部を統一したようである。「尾張名所図絵」等の資料によると,愛知県の津島神社の創始について,

「朝鮮半島に祭られていた素盞嗚尊の御魂が,七代孝霊天皇の時に,西海の対馬に遷された。」とある。

素盞嗚尊が,朝鮮半島に祭られていたということは,その地を統一していたということになる。那祖師神社の記録にも 「朝鮮半島東南部の経営のために対馬と朝鮮半島を往復した」と記録されている。
朝鮮半島南端部(狗邪韓国)は魏志倭人伝によっても倭人の国に属していた節があり, 中国の認識する倭国の領域に朝鮮半島南端部が含まれていたようである。
また,後の時代の任那日本府にしても,その起源は不明である。 素盞嗚尊が統一していたとすれば,説明できる。おそらく素盞嗚尊は,外国交易の基点として重要視したい朝鮮半島南端部を,統一していたのであろう。 素盞嗚尊は,ここを基点として,朝鮮半島の先進技術をかき集め,日本列島に持ち込んだものと考える。考えられる先進技術は,鉄器製造技術・青銅器製造技術(銅剣・銅矛・銅鐸) ・農耕技術・暦・新作物の種などであり,いずれも以後瀬戸内沿岸で変化が起こっているものである。

素盞嗚尊関連伝承地図

朝鮮半島における滞在伝承地

日本側記録 日本書紀一書(第四)

素盞嗚尊の行いはひどいものであった。そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。 この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ) の所においでになった。そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。」

 一書(第五)

「素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。 そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。」

根國へ放逐せられたる素戔鳴尊は身から出た錆の報いで所々方々を流浪しながら其の子の五十猛命と共に 今の朝鮮へ渡られ、新羅國の曾戸茂梨と言う所に居られた。

此の曾戸と言うのは朝鮮の古い言葉で牛のことであり茂梨は頭と言う事であって今の江原道春川府の牛頭山であろう。よって素盞嗚尊の別名を牛頭天王とも書いてある。

此の牛頭天王が朝鮮に居られる間に「此の國には金銀が沢山有る。これを日本に運ぶ船が無くては叶わぬ」と 仰せられて髯を抜いて散かれると杉の木となり胸毛は桧(ひのき)となり臀毛(しりげ)は披(まき)となり眉毛は樟(くす)となった。 そこで杉と桶とは船にせよと仰せられた。桧は御殿を作れ披は棺桶(くわんおけ)にせよと仰せられた。 御子の五十猛命は此等の木々の苗を沢山朝鮮から持ち歸って九州からだんだんと東へ植え付けられた。

牛頭天王の素戔鳴尊は吾は最早朝鮮に止まる事を好まないと仰せられて土で船を作り再び日本に帰って来られたのが 出雲の國安来であった。ああこれで心安くなったわいと申されたので安来の名が着いたとの事である。

このことは考古学的にも裏付けられる。後の北九州統一のシンボルとして使われた中広銅矛をはじめとする倭国関連遺物が朝鮮半島の加羅国の領域から出土するのである。そのほかの領域からは全く出土していないので、この領域が素盞嗚尊の統一した領域と考えられる。しかし、統一したのは中広銅矛の出土から考えて北九州統一後のことであろう。この段階では朝鮮半島の先進技術を学んだものと考えられる。

五十猛命が持ち込んだ木の種はなにか

五十猛命が持ち帰った木の種とはなんであろうか。当時の状況から判断して食用の果実をつける木と思われる。それであるなら、弥生時代後期になって日本列島に出現し、おそらく現在では普通に食べることができるようになっている果物であろう。そこで、弥生時代の遺跡から見つかっている果物の原産地と栽培開始時期を調べてみると下の表のようになった。

弥生時代に栽培が始まったと思われる果物

※「古代の復元」朝鮮半島統一 




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