見出し画像

織田信長の本能寺.2

織田信長の本能寺

明智光秀に討たれた織田信長の遺体はいまだ見つかっていない。というなぜ?は、歴史のミッシングリングとして、日本歴史の謎であり、古くは「卑弥呼」探しにも通じるものがある。

なぜこれほどまでに、その「お宝」探しが好きなんだろうか、というクエスチョンは、しらない判らないから知りたがる、という人間の底知れぬ探求心があるからだろう。

であるから、一旦出された新解釈は、オリンピック競技のように、直に色あせて、新説が次から次えと走馬灯のように、人の意識の中を回転する。そこに正解とか結論はない。まるでビットコインのよう仮想を駆け巡るというイメージは、それだけで人の好奇を満足させる。

そのことを「織田信長の本能寺.1.2」で綴ってみた。おそらく読む人にとって、どちらも真実だと思うに違いない。歴史「フィクション」とは、そういうものである。

本能寺の変、死を覚悟した信長がとった最期の行動

織田信長「遺体」の行方は? 戦国時代の謎と真実に迫る
2018.10.16(火) 小和田 泰経 JBPress

日本史上もっとも有名な事変「本能寺の変」。明智光秀に討たれた織田信長の遺体はいまだ見つかっていない。なぜ? そしてどこにーー? 歴史学者・小和田泰経氏が戦国時代の謎を掘り起こし、真相に迫っていく。

重要視されていた信長の遺体の確保

 天正10年(1582)の6月2日、天下人として君臨していた織田信長が、京都の本能寺で家臣の明智光秀によって死に追い込まれた。日本人なら誰でも知っている「本能寺の変」である。突発的な事件ということで「変」と呼んでいるが、実際には本能寺において戦闘もおきている。そういう意味からしても、「本能寺の戦い」と呼んでさしつかえはない。

 信長は、毛利輝元の属城であった備中国(岡山県)の高松城攻めをしている家臣の豊臣秀吉を支援するため上洛し、この日は本能寺に宿泊していた。信長は、朝廷との距離を保つため、あえて京都に城を築いていなかったからである。しかも、諸将に出陣を命じていたため、信長自身は100人程度の従者しか連れていなかった。光秀にとっては、絶好の機会であったろう。

 古来、奇襲は「夜討ち朝駆け」が常套とされている。敵が油断している夜間や早朝に奇襲をすることで、不意をつくという戦術である。光秀の軍勢が本能寺を包囲したのは、午前6時頃のことだったから、典型的な「朝駆け」である。本能寺は石垣や堀を擁する城郭寺院で、それなりの防御力をもっていた。しかし、1万3000ともいわれる大軍に包囲されては、為す術はなかったといってよい。

 結局、わずかに防戦しただけで、信長は自刃した。光秀は午前8時ころには、囲みを解いたという。その後、近隣の妙覚寺に宿泊していた信長の嫡男信忠も自害に追い込まれている。

焼失した本能寺のあった場所には、石碑が建てられている(筆者撮影)。

 この本能寺の変で、本能寺は焼失してしまう。しかし、明智光秀が信長の遺体を探しますものの、いくら探しても見つからない。その後、明智光秀を京都の山崎において破った豊臣秀吉が、信長の遺体を探索させるも、やはり見つからなかったのである。この年の10月に、秀吉は京都の大徳寺において信長の葬儀を執り行うが、遺体がないため、新たに作らせた等身大の木像を焼き、それを遺灰の代わりとして骨壺に入れたのだった。戦国時代の合戦において、戦いに勝った側が負けた側の遺体、特に大将の遺体を確保することは、なによりも重視されていたことである。合戦で討ち取られれば、首をとられるというのが、当時の常識だった。そのため、討ち取られるということは、首と胴を分断されるということにほかならない。現代の感覚でいえば、大変に残虐なことではあるが、それが当時のしきたりであった。

「首実験」と噂が広まることを想定した晒し首

 戦いに勝った側は、負けた側の大将の首を使って、首実検を行う。首実検とは、文字通り、その首が本人のものかどうか吟味するわけである。現代のように写真などがない時代、名前は知られていても、顔まで知られているとは限らない。まして、敵の大将ともなれば、顔を見る機会すら、ほとんどなかったであろう。そのため、もとの家臣や、なんらかの接点があった者を呼び、確認させたのである。首実検で、本人のものと確認された首は、晒されることになった。こうして、確実に討ち取ったことを公にしたのである。もちろん、それは自分の領国だけでなく、他国にまで噂として広がることを見越してのことだった。一定の期間晒された首は、役目を果たしたことになり、埋葬される。ちなみに、首を埋葬した塚を首塚と呼び、胴を埋葬した塚を胴塚と呼ぶ。合戦で討ち死にした場合、この首塚と胴塚は、ほとんどの場合、別な場所に存在することになる。

 信長自身も、いくつもの戦いに出陣しており、それぞれ首実検を行ってきた。たとえば、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、今川義元の首をそのころの居城があった清須(清洲)に持ち帰って晒し首にしている。また、天正元年(1573)には、朝倉義景・浅井長政を討つと、その首を「はくだみ」にして新年の宴で披露した。「はくだみ」とは、頭蓋骨に漆を塗り、金粉をまぶすことをいう。

 信長が、敵の首をこのように扱ったのは、首を晒すことの効果を理解していたからである。そんな信長が、自らの死を覚悟したとき、真っ先に考えたのは遺体の扱われ方であったことは想像に難くない。

 首が光秀の手に渡れば、必ずや晒し首にされ、光秀の謀反が正当化されることになることを、信長は誰よりも理解していたはずである。晒し首にするということは、名誉の死ではなく、罪人として殺されたことになってしまう。光秀は、信長の首を晒すことで、信長の非を訴え、謀反を正当化することもできたのである。


本能寺 画像

本能寺

 儒学者の小瀬甫庵が書いた『信長記』という信長の一代記には、本能寺を占拠した光秀は、「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり。」と書かれている。

 信長の首を探索させたが、骨すら見つからない状況に光秀はいらだっていたようである。もっとも、『信長記』は江戸時代の記録なので、史実かどうかはわからない。ただ、首が見つからないことに動揺していたのは確かだろう。もし、光秀が信長の首を手にしていたら、謀反の大義名分を得ることができたはずである。大義名分があれば、豊臣秀吉との山崎の戦いにも、勝利していたかもしれない。

 事実、秀吉は信長の遺臣らに対し、「信長様は生きているので、ともに光秀を討とう」と手紙で呼びかけていた。仮に信長が光秀によって確実に討たれたのが明らかとなっていれば、成り行きで光秀に従った遺臣も、多かったのではなかろうか。戦後時代の武士にとってなによりも大事なことは、主君への忠義ではなく、自分の家を存続させることだったからである。

織田信長の遺体はどこにいったのか?

 そこで問題となるのが、遺体の行方である。なぜ、本能寺の焼け跡から見つからなかったのだろうか。考えうるのは、誰かが本能寺の外に運んだか、もしくは遺体が完全に灰燼に帰したか、のいずれかしかない。

 実は、本能寺から信長の遺体が運ばれたという話も存在する。世に信長の墓とよばれるものは数多く存在しているが、その墓に信長の遺体もしくは遺灰が埋められていることが確実なものはない。秀吉が信長の公式的な墓所とした大徳寺の総見院でさえ、木像を焼いた灰を遺灰の代わりとしていたくらいである。そんな状況のなか、信長の遺体を埋葬したという寺伝をもつ寺院が二つ存在する。
 一つは、京都にある浄土宗の阿弥陀寺である。本能寺の変の直後、信長とかねてから親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が、信長の遺骸を運び込み、埋葬したという。実際、境内には「織田信長信忠討死衆墓所」がある。文字通り、信長だけでなく、子の信忠や家臣の森蘭丸など、一連の戦いで討ち死にした人々が弔われている。当時、僧侶は俗世とは無縁の存在とみなされていたから、清玉上人が本能寺に入ることは認められたろう。

京都の阿弥陀寺境内「織田信長信忠討死衆墓所」(著者撮影)。

 ただし、実際に信長の遺体が埋葬されているのかどうかは、わからない。いくら世俗と無縁だからといっても、信長の遺体を運び出すことは、光秀に認められるはずもないからである。それに、もし遺体が確かに埋葬されていれば、豊臣秀吉がわざわざ信長の木像を焼いて遺灰代わりにする必要もなかったろう。信長ゆかりの人物の墓所にもなっていることからすると、本能寺や妙覚寺で見つかった遺骨を集め、信長・信忠父子をはじめとする「討死衆」として供養したものかもしれない。

 もう一つの寺院は、京都から遠く離れた駿河国(静岡県)にある日蓮宗の西山本門寺である。この西山本門寺の第18世日順上人の父が原宗安という武士で、この原宗安が関係しているのだとされる。本能寺の変の前夜、実は本能寺において日蓮宗の僧侶である日海上人が鹿塩利賢と囲碁の対局を行っていた。ちなみに、日海上人は、のちに本因坊算砂とよばれる囲碁の名手であり、原宗安は、この日海上人に従っていたものかもしれない。本能寺の変で信長が自害したのち、原宗安は日海上人に託され、信長の首を密かに本能寺から持ち出し、本門寺に埋葬したのだという。その場所には柊が植えられたとされ、その柊は静岡県の天然記念物に指定されるほど歴史を感じさせる。

密かに首を持ち出し埋葬したと言われる西山本門寺(筆者撮影)

 ただ、駿河国は徳川家康の領国である。京都から駿河国に行くまでには、信長の本国である尾張国(愛知県)を通るわけで、信長の嫡男信忠は自害していても、信長の一族や家臣に渡すこともできたろう。あえて、遠くの駿河国まで運んだ理由は定かではない。

 死を覚悟した信長が一番畏れていたのは、死ぬことではなく、死んだあとのことだったはずである。このとき、信長はまだ信忠の死を知らない。首が光秀の手に渡れば、信忠も危険になるという判断もあったろう。信忠が万が一討たれるようなことになっても、次男信雄や三男信孝も、危険にさらされてしまう。

 そうしたとき、信長が取りうる選択肢は二つしかない。

 信長であることがわからないほどに遺体を焼かせるか、埋めさせる。

 もしくは、本能寺の外に運ばせるかのいずれかである。

 確実な人物に託して外に運んでもらえるのが最良かもしれないが、そうすると、途中で光秀に奪われる可能性もある。信長と親交のあったイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、「髪から骨までが灰燼となった」と記す。光秀に奪われるリスクを承知で信長が首を外に運ばせようとしたのかどうか。謎はつきないが、みなさんはとのようにお考えだろうか。

【JBPressの歴史の本】――



voice.本能寺

ここから先は

1,302字 / 1画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?