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「村祭り」はノスタルジー?

先日予告した玉前神社宮薙行灯祭が終って、ただいま帰宅したところです。毎年の年中行事ですから、型どおりの手順に従って、粛々と与えられた仕事をこなしていれば、順調にことは進みます。そうやって43年がたちました。別にどうもこうもないです。ただ継承するのみ。

昨今、こうした「イベント祭」が注目されてますが、賑っているのは極一部で、今日の夜7時からの祭りは、閑散としていて、普段どおりの展開でした。むしろわれわれ主催者側は、それで安心できる。

世相としては、田舎の村祭りは、ファンタジックな響きがあって、幻想的な世界がそこにあると、おもっているようですが、見られる側は、まるで正反対なのです。

それを端的に言い表しているのが、その語源です。ノスタルジーとは、フランス語で「過ぎ去った時間や時代、ふるさとを懐かしむ気持ち」という意味です。 また、ノスタルジックとは、英語で「遠い懐かしさを覚える。 失われたものに対して思いを馳せ、恋しい気持ちを抱く様子」という意味です。 主に、郷愁という意味合いで使われることがある、と辞書が説明しているように、まったく「ディズニーアニメ」、そのものです。

まあそれは人間に必要な心の糧として必要なものです。いまデジタル時代まっ只中にあって、ではネットSNSでそのような情報が発信されているかといったらたぶんゼロでしょう。

なぜなんでしょうか。それを企画し実行する世代が、そこにいないからです。もちろん、それらしいナニナニモドキは、いくらでもありますが、変に今風であったりして違和感がある。

例えば近くに稲荷様があったとして、それが神社なのか、キツネ様の神の建物なのか、ご神体といっても、それが人間なのか動物なのかも判らない。もっと云えば、なにかもぜんぜんわからない世界を、ある枠組みを作って、それが神ですよ神社ですよと、上のほうで決めているだけです。しかし、それがないと大きな組織は、統制がとれない。またそのことは生物学的に集団化することで、種が存続するという掟が備わっているように思える。

そんなことで、村祭りは原始的な人間の群れ社会を作っている源のようにおもいました。

それと比べて、このSNS世界は、一見群れているようで実は群れていない。なぜなら横の連結があるように見せかけて、じつは、それが本音で営業実積数という隠れ蓑でうまく操作されていることなのです。

そんなことはとっくに判っていて、「村祭り」を実行することは逆に稀で大切なことと、改めて思ったりする次第です。

命尽きるまで、なんてかっこいいことを口にして有頂天になってますが、命つきればすべて終わりです。

その仲間も同じ運命にあるその危機感は、自分たちが抱いているだけで社会は、ほとんど無頓着です。そこに有効なのがマスメディア媒体のテレビということなになりますが、そこで民放の解決策として代表されますが、そこはすべて金で動く。「村祭り」はまったくその反対の趣旨で運営されているので消滅してしまうのは火を視るより明らかです。



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