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「八咫烏」~「aI」が引き起こす「文明破壊」との因果関係

「八咫烏」の原始がここに、が一変して

歴史タイトルを書いて、それに没頭していると、頭の中は、はるか5000年前の超古代に飛んでいる訳で、根拠もないのに自分も、そこに嵌まり込んでいる、という現象は往々にしてあります。

そして、24時間過ぎて、頭もリフレッシュすると、すっかり意識は入れ替わっているのは、私が特別「超人」でなくても、皆一様にそうなるのはふつうのことです。

ですから、今朝になってパソコンに羅列された報道ニュース記事を閲覧して、それに付和雷同することだって、特別なことじゃありません。

それがイーロンマスクがAIに言及したCNN記事でしたの記事でした。
AIが引き起こす「文明破壊」に警鐘 自ら投資の傍らでマスク氏は先月、「制御不能」状態に陥ったAI開発競争を6カ月間停止させるよう訴える公開書簡にも署名した。2023.04.18 Tue posted at 17:19 JST CNNニュース

ニューヨーク(CNN) 起業家のイーロン・マスク氏が新たなインタビューの中で、人工知能(AI)は「文明破壊」につながりかねないと警鐘を鳴らした。マスク氏自身、自らが経営する多数の企業を通じてAIに深くかかわっており、新規のAIベンチャー設立もうわさされている。
「AIは、文明破壊の潜在的可能性があるという意味において、例えば航空機の設計や製造メンテナンスの不手際、自動車の不良生産よりも危険が大きい。その可能性がどれほど小さく見なされようとも、それは些細(ささい)ではない」。マスク氏はタッカー・カールソン氏のインタビューの中でそう語った。

この内容は2部に分け、17日と18日に放送される。


そして話題は、
中流域の屈家嶺文化(くつかりょうぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果とも考えられている。

に再び戻るわけです。

その時間の隔たりは、かなり大雑把で5500年の差があります。まったく浦島太郎のタイムスリップ、そのままですが、異次元惑星のはなしではなく、古代歴史文献と、そこにあったであろう遺跡発掘品を照合すると、ピタリそれが一致する、というのはまぎれもなく、そのマスクの懸念しうるAIの悪癖脅威と、まったくシンクロしていて、それがやがて人間世界を犯していくという杞憂を、マスクは指摘していることです。

どちらも現実の世界にあることで、それらが同期することはないとしても、「夢の儚さ」とは別次元なできごとなのです。


紀元前3500年中国「良渚文化」 2018-03-31 06:23:18 | 記事をコピ

良渚文化時期の遺物

玉璧・玉琮・玉龍に彫られた神の顔面

良渚文化(りょうしょぶんか、拼音: Liangzhǔ wenhua)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。
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1936年、浙江省の杭州市良渚で発掘された。崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。

近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。

また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある。

徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記匈奴参照)、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。

ソウ (玉器)
本来の表記は「琮」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

良渚文化の玉琮。
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ウイキペディア



成都市の金沙遺址博物館(中国語版)が所蔵する十節玉琮。長大かつ硬い玉を上下から穿孔し、真っ直ぐの円孔に仕上げるには高度に熟練した技術が必要だったはずである。
琮(そう、王偏に宗)は古代中国で祭祀用に使われた玉器。多くは軟玉から作られた。
外形は方柱状で、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており、琮は天地の結合のシンボルであると一般に考えられている。

琮の起源は良渚文化まで遡り、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる。良渚文化では璧と共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが窺える。

良渚文化が衰えたのちも、琮は主に中原龍山文化へ伝播し、さらに西の斉家文化へと伝わっていった。西へと時代が下るにつれ、模倣を繰り返し方柱部の文様が簡略化・無地化されてゆく傾向が見られる。中原では二里頭文化もしくは二里岡文化[12]の時期に琮はいったん姿を消すが、殷代に再び現れる。周代に至り、琮は礼法で地をまつる玉器として規定された。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子の后へ献上するものとして琮を記している。
(資料ウイキペディア)

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ウイキペディア

上古文化芸術博物館 中国古代文明を解する << 作成日時 : 2014/11/02 17:10 >>
厦門の五縁湾には上古文化芸術博物館があります。
こは紀元前4000年、3000年頃に栄えた紅山文化、斉家文化、三星堆文化などの古代文明の翡翠作品を集めた博物館です。
第一印象はそれぞれの作品が完全な形でとても6000年前の作品とは思えず偽物ではないかと思ってしまいますが、同様の疑念を抱く人のために鑑定書も所々に掲示されています。
第2の印象は一般的な中華文化とはかけ離れた造形です。アステカ文明などの印象に似ていますが、何となくユーモア感に溢れ本当に真面目に作っているのかと感じてしまいます。一枚目の写真は三星堆文化時代の作品ですが、なかなか笑いを誘います。このような文明も日本に何らかの影響は及ぼしていると考えると不思議なものです。以下のように状態の良い作品群で中国の古代文明の一理解にはうってつけです。バスは118路で終点、钟宅新家园で下車です。
場所
紅山文化時代の作品。紀元前4000年ー3000年の作品でこの頃から龍がモチーフとして使われていたことが分かります。

紅山文化(こうさんぶんか、拼音: Hongshān Wenhua)は中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の文化。

万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。

紅山文化の名は、内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。1908年、満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵が発見し、1935年に濱田耕作(浜田青陵)や水野清一らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は1954年、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。
(記事引用)

玉琮(良渚、りょうしょ文化) ぎょくそう・新石器時代  
 この、なにがなんだかわからない超精密加工品が新石器時代・良渚文化・前3500~2500年頃の作というのか゛にわかに信じがたい。
 俗に云う石器時代という我々の認識は原始の人間社会で石材道具で狩をしていた狩猟農耕種族、という乏しい知識しかない。しかし、近年の遺跡発掘調査でわかったことは、その高度に発達した智恵と技術だった。
 その遺跡から発見された玉そうは、使途がまったくわからない。それでも美術品としても充分な価値があり、みていても楽しい。それが自分の手元にある現実というのは、古代歴史が実際に行われていた、という事実を実感するのに重要なファクターになる。 
その量も圧倒的に豊富で、物欲とは人間の性だとあらためて認識する。
  
新石器時代・良渚文化・前3500~2500年頃 
1986年浙江省余杭県反山12号墓出土玉高10cm、外径8.4cm、孔径6.7cm 浙江省文物考古研究所蔵

琮は、縦方向に丸い孔を穿った筒形の玉器で、良渚文化で特に流行した。宗教儀礼に用いたと想像されるが確かなことはわからない。孔に何かを差し込んで立てるのに用いたとする説もある。
金属製の刃物がまだ存在しなかったこの時代に、硬い玉をここまで加工するには相当の労力を要したであろう。玉の塊を打ち害1った後は、砥石や、磨き砂を付けた木や竹、革などを用いて、文字通り気長に磨っていくほかなかったと思われる。細かい紋様を刻みつけるには、石英やサメの歯、ダイヤモンドなどを用いたとする説がある。

玉琮1は、方柱に丸い孔が穿たれた典型的な琮である。
側面は、上中下の3段に分かれ、4つの縦の稜を中軸線とする顔が、段ごとに細かい彫刻によって表わされている。上段と下段の顔は同じで、中段の顔は異なる。目はすべて同心円によって表わされているが、上段と下段の目には外側の円の両側に短い線が付け加えられている。これに対し中段の目は、周囲を紋様帯で縁取りされている。このような2種類の目の形状は、玉飾に刻まれた図像に見られる2種類の目と対応している。作品玉飾のような図像が簡略化されて、このような紋様になったものと考えられる。当時の人々が信じた神の顔を表わしたものであろう。 出所:「中国国宝展」

「良渚文化」と命名される
中国人は玉を好み、崇める。透き通るような玉器を飾りとするだけではなく、「以玉事神(玉をもって神に仕える)」といったとおり、玉を神聖化する。その後、人々は玉の堅さと瑞々しい光沢、きらびやかな彩り、透き通るような肌合い、澄んだきれいな音色を、それぞれ君子の仁、義、礼、智、信の5つの美徳の象徴とした。

中国の玉文化の歴史は長い。長江の下流の浙江省だけでも、大量の古代玉器が発見された。省都の杭州市から東北に20キロメートル余りの良渚は、古玉で遠く名を知られている。清朝の乾隆皇帝は、良渚産の美玉を好んで収蔵し、これを愛でて楽しんだ。もっとも、当時はこれが2、3000年前の周・秦・漢時代から伝わる宝物と勘違いしていたようだ。

1936年、西湖博物館の施昕更さんが近代考古学の方法で、故郷・良渚で発掘されたいくつかの墳墓から出土した一群の石器や陶器、玉器を炭素14法に基づいて測定したところ、正に良渚美玉は5000年前の宝物だったということが分かった。その後も、良渚とその周辺地区で5200~4300年前に属する各種の遺物が大量に出土した。1959年、考古学界はこれを「良渚文化」と名付けた。現在、良渚及び瓶窰、安渓、長命鎮などの周辺地方、42平方キロメートルの国家重点文物保護区内で、135カ所の遺跡が発掘されている。浙江、江蘇、上海などの太湖流域の3万6000平方キロメートルの範囲で、500カ所余りの良渚文化遺跡が前後して発見されている。

良渚文化は細工が精巧で、内包が豊かな玉器を特徴としている。その中でも、もっとも重要で、もっとも代表的なものは、1986年5月に反山で発掘された貴族墳墓群から出土した、等級の高い、価値のある玉礼器で、中国の考古学界にセンセーションを巻き起こした。

この発掘作業に携わってきた浙江省考古研究所副所長、良渚考古ワークステーションのリーダー劉斌さんが言うには、長命鎮のある企業が反山という荒地に工場を拡張しようとしていた。良渚の文化財管理部門はこの申請を受けて、法律に基づきまずは発掘を始めた。まさかそこが大宝庫とは夢にも思っていなかった。6つの10メートル四方の深い穴の中に、11座の貴族の墳墓が発見され、計3200個余りの玉器が出土したのである。

良渚文化は、新石器時代末期(5300~4000年前)に長江下流地域に存在した重要な古代文明で1936年に浙江省余杭市良渚鎮で最初に発見されたため良渚文化と命名された。良渚文化では、世界で最も早く、犂による大規模な稲作が行われていたほか、大型の建築物や社会組織も存在していたことから、「東方文明の曙光」と称されて いる。良渚遺跡では近年、重要な考古学的発見が相次いでおり、「中国十大考古新発見」に5回選ばれている。

※資料はウイキペディアによる


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