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郷御前(21歳)が生きた時代の生涯

ヨーロッパ世界の文明再興期は12世紀すでにあった


西洋では大昔から宗教的な儀式に欠かせないものでした。また、樹木は栽培して増やすことが難かしく、かつては同じ重さの金と取引されたこともあるそうです。
「旧約聖書」には、シバの女王がイスラエルのソロモン王の博識を確かめるために、「黄金」・「宝石」・「白檀」・「乳香」などを携えた遣いの者をソロモン王に送った、という逸話が記されています。
また、「新約聖書」には、イエス・キリストの誕生を祝し、東方の三賢人(博士)が「黄金」・「乳香」・「没薬(もつやく)」を捧げたという逸話が記されています。ちなみに、「黄金」は「王権」を、「没薬」は「死」を、「乳香」は「神権」を象徴しており、救世主に捧げるに相応しいものとされた。
その「乳香」の歴史は、まさにヨーロッパ世界の歴史、そのものでした。

一般的に学校でら習う歴史は14世紀~16世紀をイタリアルネサンス、と説明してますか、その「伊東俊太郎」著をよく読むと、すでに12世紀から、それは始まっていた、ということが書いてありました。詳細は後ほど。

国内政治ニュースでは、来年の都知事選に、誰がいいか、という話題を、ある人がYouTubeで力説してますが、なんのことはない、自分がやりたい、そんなことじゃないでしようか。

来年夏(2024年)に行われる予定の都知事選をテーマに挙げた。2期目満了となる小池百合子都知事は3期目を目指すかはまだ明らかにしていないが、この日、私立を含む都内全ての高校の授業料の実質無料化方針を明らかにするなど、事実上3選目へ向けた動きに出ている。

であっても、いまの与党の政治資金裏金とか、オリンピック運営闇工作巨額金とか、今頃またまたま騒いでますが、そんなことはメディアの仕事であって、デンツウ観音に媚びたメディアの結果というのは、社会は知っているので、相手にしないだけです。

ですからその選挙云々したところで、過半数減というのは明らかで、まして18歳有権者は、行かないし選挙人台帳数は減っているし、その対策はなにもしてないし、それでいま肝心与党は崩壊の危機を迎えていて、じゃ対抗野党は、万年末席ヤジと馬集団に、誰も期待してないでしょう。(その二者を選択する社会市民は、もっと悲惨で哀れだ)

こんな記事をアップすると益々政治不信に陥って投票数も減る、という具合ですから、そこそこにしないといけません。

今朝も、noteより、よく読まれた記事「訃報 創価学会・池田大作氏」が200回見られました! が通知されたので、これを書いてますが、その逆説論に、改めて日本政治の真骨頂をみた思いです。
創価学会創始者訃報の池田氏、ですから、尊崇者の絶対数をカウントしたら、結果的にそうなる、という算段です。云ってみれば、すべては数で制圧できる思想ですね。

さらにその上が与党自民党であり、長期政権を維持した「安倍晋三」元大臣でした。その祖父には「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介氏がいたし、池田氏も妖怪と称された人物でした。

それで、安倍氏が死んでから時がたちましたが、いまだに死因が特定されない。(社会的通念上の報道旧統一教会)は公知として知れ渡っていますが、その動機が手製の銃で心臓を打ち抜いた、という発表に、アメリカじゃあるまいし、子供のオモチャ程度で、「映画ジャッカルの日」のような周到準備もないのに、そうやすやすと街頭で首相を狙撃できるか、という漫画のようなプロットで、世間を騙すとしたら、これはもう三流漫才そのものです。

なぜそんな極端な、筋書きを想定したかといったら「吾妻鏡」説にそんなことがあったからです。

その悲運の将、「源義経」が謀反者として頼朝に裁かれ自刃したという歴史話でした。
現代世相としての「義経」は剣の使い手として子供たちには羨望のヒーローでしたし、欄干上をひらりひらりと飛び舞って敵を倒すシーンは、拍手喝采のスーパーマン的存在として脳裏に焼き付いたものです。

それが教科書には兄「頼朝」に殺されたとあっては、映画とは話が違うと憤慨したところで、脳裏記憶は容易に修正されないものです。ですから、いくら「吾妻鏡」にあったとしても、信じないという話を仮想にしてしまうのでした。

■安倍元首相の暗殺 2022年7月9日記事 安倍晋三元首相(67)が8日午前11時半ごろ、奈良市の駅前で撃たれた。搬送先の奈良県立医科大学付属病院は午後5時3分に死亡が確認されたと発表した。 部分引用

■(12世紀のルネサンス著 伊東 俊太郎(いとう しゅんたろう、1930年4月25日 - 2023年9月20日[1])は、日本歴史学者科学史文明史)。Ph.D.ウィスコンシン大学)。東京大学名誉教授・国際日本文化研究センター名誉教授・麗澤大学名誉教授。位階は正四位[2]瑞宝中綬章受章者・文化功労者。ウィスコンシン大学人文科学研究所助手、東京大学教養学部教授、麗澤大学教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長(初代)などを歴任した。)

画像 歴史屋

白拍子 義高


義経の妻「郷御前」
郷御前(さとごぜん、仁安3年〈1168年〉 - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。
武蔵国の豪族、河越重頼の娘。母は源頼朝の乳母である比企尼の娘、河越尼。源義経の正室。頼朝の命により義経に嫁ぎ、頼朝と義経が対立したのちも義経の逃避行に従い、最期を共にした女性とされる。

本名は不明だが伝承で郷御前と呼ばれているので、この項目では郷御前として述べる。 故郷である河越(川越市)では、京へ嫁いだ姫である事から京姫(きょうひめ)と呼ばれており、平泉では貴人の妻の敬称である北の方(きたのかた)と呼ばれている。

史料である『吾妻鏡』による文
上洛
元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り、頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁ぐ。
重頼の家子2名、郎党30数名が従う。この結婚が義経の無断任官により頼朝の怒りを買い、平氏追討を外された直後である事から、義経を監視する目的との見方もあるが、『吾妻鏡』に「兼日約諾せしむ」とあるように、婚姻自体は以前から決まっていたものである。
義経の異母兄・源範頼も義経と同じく比企尼の孫娘を妻としており、郷の母(河越尼)は頼朝の嫡男・万寿(のちの頼家)の乳母である。
父・河越重頼と兄弟の河越重房は義経の初陣である源義仲追討に従い、後白河法皇の御所にも義経と共に参院しており、叔父の師岡重経が義経の検非違使任官の式に随行するなど、郷の上洛以前から河越一族が外戚として義経の身辺に仕えた形跡が見られる。
細川涼一は頼朝の乳母である比企尼の孫娘でかつ武蔵国留守所総検校職として武蔵国内に大きな勢力を築いていた河越重頼の娘を義経に嫁がせたのは、頼朝による義経への厚意の表れであるとしている。
「郷」が嫁いで5か月後の文治元年(1185年)2月16日、義経は屋島の戦いに出陣。
続く壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして大功を立て、平氏追討の英雄として4月24日に都に凱旋する。
しかし5月、頼朝は先の無断任官と自専の振る舞いにより、義経を勘当する。義経は弁明のため、壇ノ浦での捕虜を伴い鎌倉へ向かったが腰越で留め置かれ、頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされる。
この仕打ちに義経は怒り、6月に都へ戻る道中で頼朝との断交を宣言した。また、この頃に義経は平時忠の娘(蕨姫)を室に迎えているが、引き続き郷は正室としての地位を保った。

義経失脚
義経が都に戻って4か月後の同年10月9日、頼朝が土佐坊昌俊を差し向け義経討伐を計る。義経は10月13日に後白河法皇の御所に参院し叔父・源行家と共に頼朝追討の院宣を要請。17日に義経が昌俊の襲撃を返り討つと、18日に頼朝追討の宣旨が下る。10月23日、鎌倉で河越重房が義経の縁戚である事を理由に、勝長寿院落慶供養の随兵から外されている。29日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣すると、11月3日、義経は郎党ら200騎を率いて京都を退去する。11月12日、河越重頼が義経の縁戚であるとして領地を没収され、後に重頼・重房ともに誅殺された。郷が義経に嫁いでわずか1年後の事であった。
この頃の郷の動向は不明だが、義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している事から、京都在中に懐妊し、都の近辺に身を隠して出産したものと推測される。
細川涼一は、頼朝方が義経の母・常盤御前の証言により岩倉を捜索したという逸話に注目し、常盤御前が「郷御前」を岩倉の大雲寺(岩倉観音)に一時的に匿ってそこで娘を生ませたと推測する。
文治3年(1187年)2月10日、義経は陸奥国の藤原秀衡を頼り、郷と子らを伴い奥州に赴く。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていた。
文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡が、従兵数百騎で義経が暮らす衣川館を襲撃。義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害した。
平泉町金鶏山の麓にある千手堂境内に、義経妻子の墓がある。

奥州市衣川の雲際寺は郷が再興したとされ、郷の守り本尊に由来すると伝えられる。不動明王と、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。位牌に記された戒名は「局山妙好尼大姉」。
河越氏の所領は後家となった河越尼に安堵されるが、その後生き残った郷の兄弟たちが吾妻鏡の記録に現れるのは、父・重頼誅殺の20年後である。

吾妻鏡考察
細川涼一は白拍子とされる義経の妾・静御前の逸話は『吾妻鏡』でも取り上げられるのに対して、河越重頼の娘(郷御前)が元暦元年9月14日条(婚姻記事)・文治3年2月10日条(北国下向)・文治5年4月30日条(死去)の3か所にしか記事が見えない背景として、『吾妻鏡』が北条氏の影響を受けた歴史書で北条氏と勢力を競った比企氏やその縁戚である河越氏に関する記事は過小に記され、その結果として重頼の娘の存在は「隠蔽」されたとする。
また、北条氏の婿である畠山重忠の記事に比べて、比企氏の婿である河越重頼が重忠の同族・同格であったにもかかわらず記事が少ないことも、同様の理由であるとする。
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解説資料

静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
日刊サイゾー 2022年05月22日(日)11:00


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