見出し画像

平家と源氏の白拍子

「源頼朝」の鎌倉幕府成立
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。

伝 源頼朝像 - 名品紹介 - 京都国立博物館 画

京都国立博物館

一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」、「源平争乱(げんぺいそうらん)」、あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。

日本最初の全国的な内乱
日本において、この乱以前にも大規模な内乱は発生しているが、それらの反乱は大規模であっても辺境地域に留まる性格のものか中央地域(畿内周辺)における短期間の内乱に限定されていた。

だが、この乱は中立的な立場を取った奥州藤原氏が支配する東北地方以外の当時の日本の国土のほぼ全域を巻き込んでおり、かつ5年近くにわたって続くものとなった。ところが、当時の朝廷の軍制はあくまでも京都およびその周辺の短期間の騒擾(僧兵や盗賊など)や海賊対策には十分であったものの、こうした大規模な内乱に対応できる体制にはなっていなかった。

平清盛、貿易を振興し、貨幣経済を進展させた一流財界人 | nippon.com
画像

nippon.com

平氏政権にしてもその成立のきっかけとなった保元・平治の乱において重代相伝の家人などからなる少数の直属部隊で勝利を収め、政権掌握後は必要に応じて公権力の発動を行うことによって諸国の兵士を動員することで補う形態を採っていた。

ところが、この乱において当初小規模勢力でかつ「反乱軍」の扱いを受けていた源頼朝勢力は、関東地方の支配権確保とその後の平氏政権打倒という長期的・領域的な目標を達成するため、傘下の武士に対して独自の本領安堵や占領した土地の給付などを実施し、これを梃子にして長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した。これに対して平氏政権側は朝廷内の旧勢力(王家、貴族、寺社)との兼ね合いからこうした大胆な措置を採ることが困難であり、それが平氏政権側の苦戦につながったと考えられている。

それまでの合戦は従者を従えた正規の武士が名乗りを上げ騎射から始めるなど、一定の作法がある戦いであったが、この乱では戦闘の大規模化により正規の武士と従者だけでは人員が不足し、動員対象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本来は非武士階級である村落領主クラスにまで拡大したとされる。

また馬術や弓術に不慣れな者が多く参加したことから、これまでの合戦ではルール違反とされていた、相手の馬への攻撃や馬による体当たりが行われるようになり、本来は矢が無くなったり馬を下りた際に使う太刀の馬上使用も増加した。これ以降、弓騎兵だった武者は太刀を使う打物騎兵に変化していった。

平氏政権の排除
乱の以前、平氏政権は軍事・警察権を握り、多くの知行国を保有していた。このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政権の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。

鎌倉幕府の成立
旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。当初、東国や北陸で勃興した反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。旧勢力は平氏打倒という目的のためには実際に追討に携わる関東政権に依存しなければならず、寿永二年十月宣旨の発給といった大幅な権限委譲の道を開いてしまう。

その結果として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。

創成期の鎌倉幕府と既存の朝廷は多くの軋轢を抱えながらも荘園公領制の維持という点では利害が一致しており、建久元年(1190年)の頼朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調体制が確認された。鎌倉幕府と朝廷が全面衝突するのは、それから約30年後の承久の乱である。

「源平合戦」という呼称について
1183年時点の勢力圏図。ただしこのように明確に分かれていた訳では無く、源氏同士、平氏同士でも相克や戦闘があった。
治承・寿永の乱は、源平合戦(または「源平の戦い」)と呼ばれることも多い。この争乱が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、平氏政権から頼朝政権(鎌倉幕府)に交代したこと、民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から清盛・宗盛ら平氏一門と頼朝・義経・義仲ら源氏一門の争いと受け取られてきたことなどが、この呼称を生んだといえる。

しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。この乱には熊野勢力や興福寺、園城寺などの寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、内乱前期においては北陸の在地豪族(義仲とは別個に挙兵)や九州の在地豪族など源平という氏族に無縁の勢力も数多く蜂起している。また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。

また、源氏や平氏は皇族から分岐した家系であり、当然ながら非武士の貴族層にも多数の源氏・平氏がおり、当時の源氏長者(いわゆる源氏の一族のトップ)も非武士の貴族である(武士が源氏長者になるのは、後世の足利義満からである)。非武士の源氏・平氏が、それぞれ武士の源氏・平氏に直接的・間接的に加担・援助したという記録は一切存在しないし、関与する動機が存在しない。

つまり、源平合戦の呼称で想起されるような、源氏と平氏がそれぞれの一族を糾合して戦った訳ではないのである。確かに、武田信義や木曾義仲など、反平氏の掛け声のもとに挙兵をした源氏一族は多い。

しかし、源氏一族に属していても、平氏に縁(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。このことは平治の乱において、摂津源氏の源頼政が河内源氏の源義朝とは完全に別行動を取っていることからもうかがえる。
野木宮合戦や頼朝と義仲の争い、義仲と行家の争いなど源氏内部での戦いもこの一連の内乱に含まれる。
同時に蜂起した諸源氏であったがそれらが全て最初から源頼朝の指揮下にいたとは限らないのである。更に源義朝・頼朝父子が源氏嫡流であったというのは鎌倉幕府の成立と言う結果論から成立したものであり、実際の河内源氏は複数の流れに分かれて単独の嫡流が存在する状態ではなく、河内源氏を代表する武者であった源義家の後継に限定したとしても、大蔵合戦や保元の乱で父や弟を討ってその地位を得た源義朝の後継者である頼朝だけではなく、大蔵合戦で討たれた源義賢の後継者である義仲や、義朝・義賢の弟である行家もその地位を主張できる存在であった。

源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。一族相克の物語は戦国時代に多いが、この時代に既に始まっている。武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。ウイキペディア

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイト。2022年1月9日(日)

鎌倉殿の13人に静御前が登場するかどうか気になるのは、源義経という悲劇のヒーローの愛妾(恋人のようなもの)で、かつとても美人だったと言われているからじゃないですか。
実際にこれまで放送されたNHK大河ドラマでも、源義経が愛した美人の白拍子として静御前が登場しています。

第51作「平清盛」(新しいタブで開く)
では静御前とはどんな人だったのでしょうか?「静御前とはこんな性格の人」と断定することは難しいのですが、NHKラジオらじる★らじる(新しいタブで開く)のホームページでは静御前をこのような人物として思われているようです。静御前のイメージ → 「源義経を思う一途な人」


鎌倉殿の13人と静御前~源義経が愛した美人の白拍子。男装して歌いながら舞える人がキャストか。 エコテキブログ
投稿日:2022年1月6日 | 更新日:2022年1月7日


画像 静の舞(藤沢市の白旗神社 白拍子) 2009年6月13日撮影
Shizuka-no-mai,_Shirahata_Shrine,_Fujisawa,_Kanagawa


鎌倉市観光協会

「静御前 生涯」
『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。

この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる[注 3]。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。
ウイキペディア

激変した歴史の新常識!
鎌倉幕府は結局、1192年?、1185年?、どっちなの!プレジデント 2020年3月20日号

最近の日本史の教科書を開くと、教わってきたことと随分違うことに気づく。知らぬ間に何があったのか。歴史家の河合敦氏に詳しく聞いた――。

【縄文時代】科学の発展で、年代に変化
早速ですが、皆さんは縄文時代が何年前から始まったと教わりましたか? 40代以上の方は1万年前と習った方が多いと思いますが、様々な研究の結果、現在の教科書では1万3000年前とされています。

奈良県桜井市の纒向遺跡。発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見された。奈良県桜井市の纒向遺跡。発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見された。(AFLO=写真)全ての画像を見る(5枚)

しかし、さらなる科学技術の発展が、歴史を塗り替える可能性があります。炭素14年代測定法を用いて青森県にある大平山元I遺跡の縄文土器を測定したところ、1万6500年前という驚きの数字が出ました。この測定法の結果が正しいとすると、縄文文化は、今の教科書より3500年も早い、日本が中国大陸と陸続きだったときから始まっていたことになります。

炭素14年代測定法とは、どのようなものなのでしょうか。生物は体の中に放射性炭素を含んでいます。ところが死ぬと、それが一定の割合で減っていきます。半減期は5730年です。つまり、どれだけ放射性炭素が減ったかを測ることで、経過年数が計算できるのです。

さらに縄文文化は狩猟採取、弥生文化は水稲農耕を基礎とすることになっていますが、近年の研究により、縄文時代晩期には確実に稲作(水稲耕作)が始まっていたというのが定説になっています。
さらに縄文時代前期の朝寝鼻貝塚(岡山県)からは稲が朽ちても残る結晶のようなプラントオパールが出土しており、すでに縄文前期における稲栽培の可能性を指摘する学者もいます。

【弥生時代】邪馬台国所在地論争に、終止符か
女王卑弥呼に率いられた邪馬台国がどこにあるかは、古代日本をめぐる一大ロマンでした。

その所在地については、京都大学の学者たちは畿内説を主張し、東京大学の学者たちは九州説をとなえて、論争にまで発展しました。しかし最近では、畿内説のほうが有力視されています。

奈良県桜井市にある纒向まきむく遺跡の発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見されているからです。纒向遺跡は、箸墓はしはか古墳など初期(3世紀半ば以降)の巨大な前方後円墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権(初の全国政権)の発祥の地といわれていた場所です。

ですから、この地におそらく大きな集落あるいは都市のようなものがあり、それが邪馬台国で、そのまま発展してヤマト政権になったのではないかと考えられています。

もちろん、九州説も完全に否定されたわけではなく、纒向遺跡を上回るような遺跡が発見されれば、形勢が逆転する可能性は十分残ってはいます。

また、邪馬台国は1つの国ではなく、同国を中心とする30の小国の連合体でした。卑弥呼は鬼道きどうをよく用いたとされており、その呪術的権威を背景に政治を行ったとみられています。なので、最近の教科書では卑弥呼が治めたのは「邪馬台国連合」と表記されるようになっています。

【飛鳥時代】聖徳太子は本当にいたのか
新しい史料や歴史研究の進展によって、偉人としての評価が大きく変わっている人物もいます。


「錬金術」とか科学では説明がつかないとか、そんな話は、この近代社会に在っても話題に事欠かない。例えば空飛ぶUFOとかね・・・。

なかり前のことだったが、「ニュートン秘密の箱」という本を読んでいて、そこに、当時のニュートン研究痕跡が詳しく書いてあった。そこにあったのが「錬金術」である。

ニュートン自身の実験メモ~抜粋
 このたび再発見された写本も、そうした成果の一つだ。ニュートンはこの奇妙な文書を、17世紀の錬金術師で米国生まれのジョージ・スターキーの著作から書き写した。現代の学者が解読したところ、スターキーによる「哲学者の水銀」のレシピでは、水銀を蒸留し、金と一緒に加熱する過程が幾度も繰り返されている。この作業を続けると、やがて枝のように伸びた繊細な突起をもつ合金が生成される。この驚くほど樹によく似た構造物を見たスターキーは、哲学者の水銀が生命を宿し、その力と重要性を示したと感じていたことが、その記述から読みとれる。だが、ニュートンがスターキーのレシピを正確に読み解いたのかどうか、また錬金術で樹状の構造物を生み出すのに成功したかどうかを示す証拠は残されていない。

 この文書の真の価値は、裏面にあるとも言える。ニュートンはそこに彼自身が編み出した、鉛鉱石を用いた錬金術の手法を走り書きしているのだ。スターキーの著作は公に出版されているが、ニュートンは公表の数年前にその内容を入手している。これはニュートンが他の錬金術師たちと協力関係にあったことを示す手がかりになるのではないかと、ニューマン氏は述べている。そうした関係は、ニュートンの光学の研究に影響を与えた可能性もある。白い光はさまざまな色の光が混ざったものだが、ニュートンがこの革新的な発見をするうえで、錬金術の教えがヒントとなったかもしれない。「錬金術師は、化合物の分解や再構成が可能であることを、初めて見いだした人々です。ニュートンはこの考え方を応用して、白色光を複数の色に分けたり、再び集めて白い光に戻したりしました。これはニュートンが錬金術から得た手法なのです」とニューマン氏は言う。 ニュートンは数々の重要な科学的発見を成し遂げた。だがその中には、「錬金術師ニュートン」のおかげで初めて可能になった発見もあったのかもしれない。(参考記事:「日本人初!の“超重元素の錬金術師”」)《 ニュートン1643年1月4日生》ウィキペディア

http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/db6eaf900a9c73aaae2505460870bc8c 自著ブログ

「ニュートンの秘密の箱 : ドラマティック・サイエンスへの誘い」
小山慶太 著 出版社 丸善発行 年月 : 1988年04月

画像 日本の古本屋 ニュートンの秘密の箱 : ドラマティック・サイエンスへの誘い(小山慶太 著) / 古書 リゼット / 古本、中古本、「日本の古本屋」 /

古来の呪術師「巫女」 古来より巫女は神楽を舞ったり、祈祷をしたり、占いをしたり、神託を得て他の者に伝えたり、口寄せなどをする役割であったが、明治以降は神社で神事の奉仕をしたり、神職を補佐する役割へと変化していった。なお、現在、一部の仏教寺院で白衣に緋袴(ひばかま)という、巫女装束そのもの、または類似の服装で奉職する若い女性もみられるようになっている。巫女は柳田國男や中山太郎の分類によると、おおむね朝廷の巫(かんなぎ)系と民間の口寄せ系に分けられる。柳田によれば巫系巫女は、関東ではミコ、京阪ではイチコといい、口寄せ系巫女は京阪ではミコ、東京近辺ではイチコ アズサミコ、東北ではイタコと呼ばれる。これらの呼称に関する点から、柳田は「もともとこの二つの巫女は同一の物であったが、時代が下るにつれ神を携え神にせせられて各地をさまよう者と、宮に仕える者とに分かれた」という説をだした。なお、日本に限らず他国の女性シャーマンも巫女と訳されることが多いが、堀一郎によれば日本の巫女は「海外のシャーマンのように、全員が精神的疾患を持っていない」「『神にせせられて』さまようものの、いわゆる憑依の症状をしていない」「そもそもシャーマンは『口寄せ』をしない」という点から、歩き巫女を含めた巫女とシャーマンを区別しうるとする。 [ウィキペディア]
ギリシア以来の西洋科学の旗手「ニュートン」と、日本の古代シャーマンスタイル巫女を比較して何が違うか、という問いだが、あまり変わらないというのが私の見方だ。

それ以前では陰陽師「安倍 晴明」が陰陽五行思想をもって、当時の祭りごとを仕切っていたという記録は残っている。それは映画にもなった。

西洋科学・化学は万能か、という話しは、いまだに問われるが、ここで断定するわけにはいかなので、どちらでもない、としておく。それを前提として話を進める。

そのニュートンが、「錬金術」を本気で研究していた、という書籍の記録だった。

まあ一般的に「庭のリンゴの木から実が落ちて、それって引力だよね」と明かにした、というのが「万有引力」で、世界中の常識を作った人物だった。学校でも習って、義務教育を受けられる国だったら全員知っている。

それが「金」を作るのに、アレとコレを混ぜると「金」になるという研究をしていた。今だったら物質元素記号で分類されていて、人工的に金は製造できないとされる。しかし、その時代だから、そのメカニズムに至らず、「もしかしたら」とニュートンは思ったに違いない。

その時点で、その方法論は東洋思想の「シャーマン」と近似していた。先日来、大ブレイクしたアニメ映画「鬼滅の刃」も、それに類する。

そうしたことが近代科学では計り知れない領域、パラノーマル的世界の超常現象であり、その知らない世界だから、知りたくなる、でも誰も教えてくれない。だから、その「准テキスト」のようなことが書いてある指南書、マニュアル書が、店頭に山と並ぶ。多分、それを読んでも、さらに判らない魅惑の超常世界なのだ。




white-outに消えたオンナ「ねェ好きな子、いるの?」
SNS的現代風物に「白拍子」御前は意味不明アバターか?

何気ないその「ねェ好きな子、いるの?」がとても気になった。これがどこで使われていたのか、まったく忘れたしまったそのフレーズが脳で疼く。

 平清盛は厳島神社を守護神として舞楽を興し、源頼朝は鎌倉幕府の創設者として知られるが家臣らに京都より下った楽人に雅楽を習わせ鶴岡八幡宮で雅楽を演奏させた。そのことを考え併せても平安朝の伝統である雅楽が武家政権に移行しても重要な政事の儀式に欠かせない音楽であることを物語っている。平安末期の武将として源氏を打ち破り平家勃興の立役者として名を馳せた平清盛は娘の徳子を高倉天皇の皇后として、皇室の外戚を利用して勢威を発揮した。平清盛に代表される武士政権が宮廷の雅楽に与えた影響は大きい。中世の歌舞である白拍子の様相が、それまで伝統的に継がれていた正統的型が平清盛政権を境にして微妙に変化し簡素化されたのである。

 頼朝が鎌倉幕府を開き鶴岡八幡宮で家臣らに雅楽を習わせ演奏させたのが1192年の事であったが、その7年前の1185年では『管絃音儀』という雅楽に関する重要な音楽理論の書物が涼金という僧によって書かれている。
 もともと中国の『呂氏春秋』を手本にした書とされ、その内容は五行思想が強く反映されている。その五行思想と音楽を一体化した音楽理論書である。
「音楽は天の気を和らげる」、また「それ管絃は萬物の祖なり、天地を絲竹(絃・管楽器)の間に篭め、陰陽を律呂の裏に和す」などの意味を込め、音を五行思想の方位・季節・色などと組合わせて一つの宇宙観を作り上げている。宮廷雅楽の秘儀的要素の一端を観ることができよう。

 その詳細を挙げると次のように具体化されている。 壹越調は中央で土、盤渉調は北の玄武・冬・黒、双調は東の青龍・春・青、黄鐘調は南の朱雀・夏・赤、平調は西の白虎・秋・白、 を用いて方位ごとに音程を現している。五つの各調子は和律名で曲を現す基音の音程を表記したものである。(キトラ古墳に確認された)

 雅楽をそのような宇宙観によって捉え五行思想と音の世界を結び一定の概念をつくった。

 古代中国思想の影響というよりも、殆ど直接的に思想導入した考えは既に先例がある。聖徳太子が国史を作るときに用いた讖緯説も陰陽五行思想が基礎にある。また、蕃楽を奨励して渡来音楽を積極的に導入している。
 その伝統的正当的家系の音楽一族と、昭和の時代に古典邦楽の専門書を著した伊庭孝が「人後に落ちない」という事ではない。むしろ世襲という束縛に限定されない伊庭孝の自由奔放な音楽理論展開が保守的壁を破竹することに壮快感がある。

 必要なのは情緒的表現ではなく西欧世界が開拓した科学的洞察の視線である。人間それぞれの主観に委ねられる概念ではなく人間感情が一切介入する事のできない物理的現象を客観的視点で捉えることである。
 
 それは紀元前より始まった西欧の哲学科学者たちのもっとも基本とする姿勢である。科学理論の裏付け、その数値をもって表すことが伊庭孝の真摯な姿であると私は見ていた。

伊庭孝=・源頼朝の鎌倉幕府~

今風「アニメーション」にしたら色は白か黒か~

大都会ビル一角に棲むサラリーマン家庭の一人っ子少女(中1)「マナカ」が読んでる人気キャラクター漫画ヒロインに投影した、その声優ハスキーVoiceとも違う、そのすこし外れた違和感を醸していたとか。(もしかして好きな子ってアレだったの?)

また、とんでもない地方田舎の風景の中の一軒家、冬になると一面の銀世界が広がる風景より隔絶した暖炉の部屋で、自家製パン窯で焼いたピザを食べ一時の幸福感に浸る。それとは大幅に違った「映画」プロットじゃなきゃいけないし。そんなことを中一少女「マナカ」に訊いたら、なんていうのか、幾通りの答えを用意してみた。

白拍子という鎌倉時代にいたシャーマンの巫女(また男)だった。

「もしかしてもしかして、そうなの、違うの、どうなの」???

そんなこと云いたそうな顔してた。
だいたい「マナカッカ」が、喋ると何か予感がするんだ。

予感・・・

そう、よ、か、ん。空気が動く、でも風じゃない。空気、空気なんだ、気というか、目にみえない透明な粒子の気(け)、みたいな。

ほら、煙りだってアレ、粒子なんだ、それに雲とか水蒸気とか、みんな細かい粒なんだ。だからその「気」なのさ。いつも「マナカッカ」のそばにピッタリ寄り添っている「MRNマリアンディー」が、そういった。

「あしたはアメか」、南西の黒い雲空を見上げて、そう叫んだ。こんなとき古代記などに登場する鳥、ヤタガラス。それが黒い色の「カラス」だった。

参考資料

この世(社会)は、上と下 縦と横 でしかなく、モノを持っているか
ものを持っていないか、という価値の定義で計られる。(資金格差の拡大)

同時に、多くの情報を集め持つことも同じで、「白拍子」のための鎌倉時代資料を、ここに掲載した。これを一つの「話し」にするには時間がひつようである。兎に角はじめるしかないと思った。 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?