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長谷川伸の小説世界

2022年09月10日記事

夜もすがら検校

『夜もすがら検校』長谷川伸(よもすがらけんぎょう)
講談るうむ
【解説】 長谷川伸が大正13年に発表した短編小説で、彼の出世作となった。講談では定番の読物として多くの人が演じている。 
『平家物語』を語らせれば日本一という玄城(げんじょう)検校は京都に住む。江戸の大名たちからもぜひ検校の語りが聴きたいという声が掛かり、友六という家僕を連れて東海道を東へと向かう。江戸では友六は“おりよ”という女に夢中になる。

 京都で2人一緒に暮そう。友六はこう言って帰路、検校には分からないよう、このおりよを共に連れていくことにする。中山道の雪深い木曽の山中の宿でおりよはやはり江戸を離れたくないと言い出す。検校を雪の中に放り出してしまい、金も奪って一緒に江戸へ戻ろう。おりよはこう友六をそそのかす…。
【あらすじ】 江戸時代の中頃の話。京都に『平家物語』を語らせれば日本一と評判の高い玄城(げんじょう)検校という者がいた。この人の平家物語は一晩中聴いていても飽きないというので、人は『夜もすがら検校』と彼を呼ぶ。

 江戸の大名たちから、是非検校の語る平家物語を聴きたいという声が掛かり、友六という使用人を連れて東海道を東へと向かう。
江戸に着き、方々で平家物語を語るが、大変に評判がよく滞在が3,4ヶ月と延びてしまう。一方友六はすることが無く、芝の神明前の水茶屋に出入りするようになり、そこで「おりよ」という女性と出会う。
 友六はおりよにすっかり夢中になってしまい、自分は間もなく上方へ帰るので一緒にいって所帯を持とうと言う。
 旦那は目が見えないので、京都への道中、女が一人余計に着いていっても上手くごまかせるだろう。往きは東海道を通ったので、帰りは中山道を経由することにする。旅の宿では玄城検校を床に就かせると、友六とおりよは二階の同じ寝間で夜を過ごす。
 木曽福島の宿では大雪で3日の間発てない状態が続く。暇を持て余した玄城検校が琵琶を持つと弦が2本同時に切れる。

何か不吉の前兆でなければ良いが。
二階ではおりよと友六が喧嘩をしている。

 おりよはやはり京都なぞには行きたくない、江戸以外に住みたくない、江戸でならば所帯を持ってもいいと言う。邪魔な検校を始末して金もそっくり頂いてしまおうと、おりよはそそのかす。雪が止み宿を発つが、友六に酒手を渡された駕籠屋は途中で検校を雪の中に放り出して去ってしまう。
 友六の悪だくみを知り悔しがる検校だがもうどうしようもない。手探りで落ちていた琵琶を見つけ出す。杖も無く足で探りながら歩くが、道の下へと滑り落ちてしまう。吹き溜まりに落ち怪我はなかったが、大道から外れた山の中でもう誰も自分を見つけてくれることはなかろう。死を覚悟して琵琶を取り出し雪の中、平家物語を語り始める。
 息も絶え絶えになって来た頃、大きな風呂敷包みを持った若い男がその声を聞き付け、法師頭巾を被った検校を発見する。検校を背負った男は山田村という場所の一軒家まで連れて行き、炉に火をくべて身体を必死に暖める。
 まだ運があったか検校は意識が戻り、男にこれまでの一部始終を話す。検校は京都へ戻るための路銀を貸して欲しいと頼むが、男も一文無しである。実はこの男は借金を重ね、夜逃げするところで検校を見つけたのだ。
 検校は漆(うるし)の焼ける臭いがするのに気づく。検校に暖を取らせるため、男は先祖代々伝わる大切な仏壇を焼いてしまっていたのだ。さらに腹の空いた検校に雑炊を食べさせ元気づける。男の心遣いに感動する検校。男は夜逃げをするつもりだったが、もう空は明るくなるろうとしている。 2人は美濃の大垣まで出る。検校は『平家物語』を語ってあちこちを廻るが、なにしろ日本一と言われる『平家物語』の語り部なのでたちまちのうちに金が集まる。これならば通し駕籠で京都へ行ける。男にも一緒に行こうと勧めるが彼はこれを断った。2人は別れ、検校は無事に京都へ戻ることが出来た。
 それから5年という月日が流れる。京都にしては珍しくえらく雪の降った日、玄城検校の屋敷にいつしか木曽の山中で出会った若い男が訪れる。
手放しで喜ぶ検校。聞くと別れた後、男は仕事を得ようと方々を歩き回ったがなかなかいい職が見つからず、ここ京都へ立ち寄ったという。
 検校は金の入った包みを渡そうとするが、自分の借金は自分で返すと言って受取ろうとしない。命の恩人である男になにか恩返しがしたい検校。
 男はただひとつ『平家物語』を語って欲しいと頼む。もちろん検校は承知し、一番大切にしている名器の琵琶を手にする。
 語りが最高潮に達したところで、何を思ったか検校は柱に琵琶を思い切りぶつけ木っ端みじんになる。検校は妻に壊れた琵琶を炉にくべるように言う。
 あの木曽の一軒家で男は大切な仏壇を焼いた、その代わりに検校が宝としているこの琵琶を焼いたのである。
 検校の真意が分かった男は改めて金を受け取った。夜が明けるまで2人は思い出話を語り合う。 翌朝、検校は旅立つ男を見送る。男が近江国に差仕掛かると、みすぼらしい身なりのひとりの男とすれ違う。
 彼こそは雪の中に検校を放り出して逃げた友六で、八王子の宿でおりよの色男という者と出会い、滅茶滅茶に叩きのめされ、金も女も盗られてしまったのだ。
 江戸でおりよを探すが見つけられるはずもなく、また職も見つけられず、せめて故郷である京都で死のうと西へ向かっているのであった。琵琶湖の水面はまるで若い男の善行と友六の悪行を映し出す浄玻璃(じょうはり)の鏡のようであったという、『夜もすがら検校』という一席。

参考口演:宝井琴調講談るうむ(http://koudanfan.web.fc2.com/index.html)
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■長谷川 伸(はせがわ しん、1884年(明治17年)3月15日 - 1963年(昭和38年)6月11日)は日本の小説家、劇作家。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。
大衆文芸作家であり、人情の機微に通じ、股旅物の作者として知られた。「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。


ウイキペディア


長谷川伸生誕地の碑(横浜市)略歴神奈川県横浜市(日ノ出町)の土木請負業の家に生れる。
長谷川寅之助の二男。三谷隆正、三谷隆信の異父兄。実母は横浜市泉区の出身だが、夫の暴力・放蕩が原因で、伸が3歳のとき家を出る。後年『瞼の母』の主題となる母との再会を果たした。実家が没落したため小学校3年生で中退して船渠勤め等に従事。品川の遊郭で出前持ちをするなど住み込みの走り使いや水撒き人足として働く間に、港に落ちている新聞のルビを読んでは漢字を覚えた。
大工や石屋の見習いなどを経たあと、体より頭を使う仕事をしたいと、好きだった芝居の評を新聞社に投稿し、それが縁で1903年(明治36年)にその新聞社の雑用係として入社。
その後、英字新聞ジャパン・ガゼットに移る。1905年(明治38年)に千葉県国府台の騎砲兵第一連隊に入営する。そのときの中隊長が、のちの陸軍大臣となる畑俊六大尉だった。
除隊後、横浜毎朝新報社に入社。たまたま警察回りの記者が辞めたため、事件・事故の記事担当となり、他社の記者が書いた記事を集めては真似をして記事の書き方を学ぶ。都新聞の劇評家・伊原青々園に手紙を書いたところ、まったく見ず知らずであったが、伊原の口ききで1911年(明治44年)から都新聞社の演芸欄を担当する記者となる。
長谷川はしばしば劇評を演劇雑誌などに投稿しており、伊原はその名前を覚えていたという。出社の際に履いていく袴がなく、知人に借りうけるため、出社日を1日伸ばしてもらう。入社後、まわりの記者の知識に圧倒され、毎日辞めたいと考えていたが、それは彼らが東京の地理や事情に詳しいだけであると気づき、東京の地図を懐に忍ばせながら記者生活を送った。同時に猛烈に本を読み始める。
1914年(大正3年)前後に講談倶楽部や都新聞に山野芋作の筆名で小説を発表しはじめ、1922年(大正11年)以降は菊池寛の助言を受け、長谷川伸として作品を発表するようになる。
1925年(大正14年)都新聞を退社して作家活動に入る。同年に、大衆文芸を振興する二十一日会の結成に尽力。このころ周囲で亡くなる人が相次ぎ、自らの体調も思わしくなく、以前易者に言われた死期に近付いていることなどから、もうすぐ死ぬのではないかという思いにかられ、「どうせ死ぬなら、生まれて初めて自分が自分の体に奉公しよう。ダメなら大道で天ぷら屋でも始めればいい」と考えて、1926年(大正15年)には都新聞社を退社、以後作家活動に専念した。
困難の次には困難でないことが起こるということを苦しい生い立ちから学び、前途が乏しいときほど力で出る、と長谷川は語っている。
五反田で芸者屋を営んでいた妻・まさえが亡くなり、自殺を考えるほどのスランプから小説が書けなくなり、脚本を書き始める。いくつかが上演されたのち、沢田正二郎が演じた『掏摸(すり)の家』の好評をきっかけに、劇作家として徐々に話題を集め、『沓掛時次郎』など、次々とヒット作を世に送り一時代を築く。

検校(けんぎょう)とは、中世・近世の盲官の最高位の名称。 元々は平安時代・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名であったが室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着した。 検校は、専用の頭巾・衣類・杖などの所有が許された。 盲官(盲人の役職)では、位階順に別当、勾当、座頭があった。 ぼうだ「滂沱の涙」 涙がとめどもなく流れ出るさま


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